内にある光と闇と真の光

fishスフィンクスが尋ねた。 「稲妻よりも不意をつくものはなんだ」
「復讐よ」 とファーベルは言った。
「いちばんはかないことはなんだ」
「不当に所有することよ」
「世界を知るものはだれだ」
「自分自身を知るものよ」
「永遠の秘密は何か」
「愛よ」
「愛はどこにある」
「ゾフィーのところよ」

(参考:岩波文庫「青い花」ノヴァーリス作、青山隆夫訳)

みんなにとっての、世界にとっての、“よいこと”とは、何なのでしょう?
「“よいこと”をしているつもりなのに・・・。」 という経験をしたことはないでしょうか?
「わたしは、あなたのためを思って、こうしたのよ。それなのに・・・。」 それは、本当に相手が望んでいたことだったのでしょうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは・・・?

難攻不落の言葉、“正義”とは?
“正義”を掲げて人を殺すのは、“よいこと” なのでしょうか?
正義を掲げている人を満たすために必要なのは、悪。「みんなの幸せ」のために闘います。
そして、悪とされた側も、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために、自分たちにとっての悪と闘います。
どちらも、私には同じに見える。
自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならないのではないでしょうか。
そして、それによって、闘いは終わらない。
一体、誰のため? 自分だけのためなのでは? 敵がいる方が、都合がいいもの・・・。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる草原に現れた、戦場へ向かう、空飛ぶ軍艦のような機体を見ながら、ソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

・・・どちらも、人を殺しに行くことに変わりはない。

「みんなの幸せ」のために、戦争をする。
「みんなの幸せ」のために、自由を奪う。
「みんなの幸せ」のために、この星を破壊する。
「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に幸せに繋がっているのでしょうか?
自分の座っている方の枝を切っていることになってはいないだろうか・・・。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪・闇は、よく気付く。
では、自分の悪・闇は、気付いているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか?
自分の中には、一体何があるのだろう?

物語の世界では、闇や影などと対決する物語が多くあります。
そして、その闇や影というのは、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると。
そして、光と闇は別々のものではなく、ひとつのものであるとします。

きみの殺したがっている人間は、むろん決してなんのなにがし氏というんじゃない。変装人物にすぎないのにきまっている。ある人間を憎むとすると、そのときわたしたちは、自分自身の中に巣くっている何かを、その人間の像の中で憎んでいるわけだ。自分自身の中にないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの。

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

また、ル=グウィンの「ゲド戦記」で、影との戦いを終えたゲドは、こう言います。

「な、終わったんだ。終わったんだよ。」彼は声をあげて笑った。「傷は癒えたんだ。おれはひとつになった。もう、自由だ。」それから彼はうつむいて両腕に顔をうずめると、子どものように泣きだした。
・・・中略・・・
ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

では、物語に“悪役”として登場してくるものたちは、私たちに何を気づかせようとしているのでしょうか?
“悪”とは、単純に、悪いこと、排除しなければいけないものなのでしょうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

悪役は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させることになったりする。
J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだったように。

善とは、何でしょう? 悪とは、何でしょう?
光とは? 闇とは?
それは、どこにあるのでしょう?
その答えを、誰が知るのでしょう?

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。
光と闇は、全く別々のところに存在しているのでしょうか?

万物の母なる大地は、同時に万物の墓場でもある。
一切を葬る場所は、また一切を育む母胎でもある。
その母胎から生まれた子供ともいうべきさまざまな草木が
母の乳房にすがって乳を吸っている姿を日頃目にするが、
それらの多くの草木が多くの効能をもっており、
なんらかの効能をもたぬものは一つもなく、しかも効能は千差万別だ。
草や木や石の性質の中に含まれている
霊妙かつ強力な薬効は全く驚嘆に値する。
およそ地上にあるもので、いかなる悪しきものといえども、
地上で生きているものに対しなんらかの良き作用を及ぼさないものはない。
また、いかに良きものといえども正しい用途から逸脱すれば、
本来の性にもとり、やがては腐敗の道をたどってゆく。
いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
きっと、そこに愛がある。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない――あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

“汝自身を知れ”