平和を望むなら平和であれ

goldengreen01世界を変える必要があると想うなら、先ず、自分のことに取り掛からなければ、と想います。

平和を望むなら、攻撃的なエネルギーで世界に立ち向かうよりも、自分自身が平和でいることの方が、ずっとずっとはやく近づくのではないでしょうか。
不安が怒りに変わるのでしょうが、悲しみが憎しみに変わるのでしょうが、イライラしながら平和を望むなんて、何だか変です。
まして、銃を構えながら、「愛してる」なんて・・・・・。
それでは結局、何も守れないんじゃないだろうか。
“守る”って、何なのだろう? 武器を手にして、一体何を守っているのだろう?
自然を壊してまでも、生活に負担をかけてまでも、それは本当に必要なことなんだろうか。
本当の強さとは、何でしょう?
「積極的平和」という言葉を使うのなら、それは人を殺す兵器をいっさい持たない。ということで、その強さを誇る方がかっこいいんじゃないだろうか。

「○○反対!」と声を荒げるよりも、「○○な世界に賛成。」と穏やかにうたう方が、ずっと良いと想います。
そして、○○という言葉を使っている限り、その○○は、無くならないのではないでしょうか。
反対を言うことは簡単です。でも、自分が望む世界はどんな世界なのかを考えたことがあるでしょうか?
本当の望みとは、何でしょう?

反対するということはそれに固執していることなり。
<すべての道はミシュノリに通ず>という諺がある。とすればたとえミシュノリに背を向けて歩き出してもいぜんミシュノリの道にいるのである。下品なものに背を向けるということは自分が下品な証拠なり。もっと別なことろへ行くべきである。別の目的を持つべきである。
さすれば別の道に出よう。

(参考:ハヤカワ文庫「闇の左手」アーシュラ・K・ル=グイン作、小尾芙佐訳)

本当に大事なことって、何なのでしょう?
平和って、何でしょう?
平和は、どこからはじまるのでしょう?

どこかの戦争が終わっても、ひとりひとりの意識が変わらなければ、またどこかで戦争が起きるのではないでしょうか。
噂話、悪口などなど、このくらいと思うかもしれないけど、あっちこっちで、それは聞こえてきます。
そのエネルギーは、世界に放たれているということを気にしたことがあるでしょうか。
そして、そのエネルギーは、いずれ自分に返ってくるのです。
大きいこととか小さいこととか、比べているのは誰なのでしょう?

心を平和に。

ただそれだけです。

何か特別なことをしなくても、空を見上げることをしたら、大地に立っているんだと感じたら、風を感じたら、太陽の熱を感じたら、季節の匂いを嗅いだら、それだけで、世界は変わり、豊かになるのではないでしょうか。
争う世界を無くしたいのなら、自分自身の中の争いごとを止めること。ただ、それだけです。

世界の真の美しさを表現する方が、私は好きです。
真の美しさとは、何でしょう?

樹木そのものがわたしたちにとり、結局はもう何も意味しないとき、環境汚染や自然破壊に対して社会批判的な論を述べても、それが何の役にたつというのでしょう? しかし、その詩のなかで樹木の美しさ、この謎を秘めた存在への兄弟心を体感させてくれる詩人は時代遅れとされ、ほとんど滑稽な過去の遺物とみなされるのに、環境破壊に対して怒りを込めたパンフレットを書く者は、森がかれ自身にとっては現代生活において生物学や化学的な基礎以上の意味を持たなくても、進歩的、いや勇気があるとさえ言われるのです。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <永遠に幼きものについて>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

他人は、変えられない。他人のことは、わからない。その人の、真の生きる目的を、どうして知ることができるだろう?
でも、一つだけわかることがある。それは、草花にも星々にも言えること。
“それ”は、隠されることもなく、いつでもどこでも明かされていること。
新たに創り上げる必要も無く、新たに覚える必要も無いこと。
そして、はじめから、みんなそこにいる。私とあなたも。

他人を追いかけるよりも、自分と向き合ってみてはどうでしょうか。
「今は、忙しいから」「やらなきゃいけないことが他にも沢山あるんだ」・・・・・ なんて言わないで。
ほんの一瞬、ただ静かに向き合えば、“それ”は見出せるはずです。
深刻になる必要はありません。深刻になると視野が狭くなり、考えも心も、固く狭くしてしまいます。
深呼吸をしたり、静かにしていると、スペースができて、全体を見られるようになります。
ごちゃごちゃ考えない何でもない時に、パッと閃いたりするものではないでしょうか。

そこで、見出すものは、何でしょう?

自分を知ることは、世界を知ること。
関係の無いものなど、何も無い。
いつも、自分に戻る必要がある。
そこに、愛があるから。
そして、それに気づいたとき、世界はもっと豊かになる。

歴史は不幸なことに、ある人々を被抑圧者に、ある人々を抑圧者に分けてしまっている。そして被抑圧者が抑圧に対処する方法は、三通りある。その一つは、物理的暴力と人間を腐食してしまう憎しみによって、抑圧者に立ち向かっていくことである。だがこれは間違っている。というのは、この方法の危険性と弱点は、その無益さにあるからである。暴力は、問題の解決よりも、より多くの社会問題を創り出してしまう。
(中略)
もう一つの方法は、抑圧に対して黙認し、譲歩し、あきらめてしまうということである。ある人々はそのようにする。彼らは約束の地に至る過程で、荒野の困難を知り、約束の地に入るのは難しいので、エジプトの独裁者たちの下に戻ろうとする。こうして彼らは、抑圧に対してあきらめ、黙認してしまう。だがこれも解決の道ではない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じぐらい道徳的義務だからである。
だがもう一つの方法がある。それは愛の原理に基づく大衆的非暴力抵抗である。私には、われわれの目が未来に向いている限り、これだけが唯一の解決策であるように思われる。
われわれはこれからの未来と、未来の世代を見つめながら、たった今ここで、この方法を見出して行動していこう。われわれは愛の力、愛の贖罪力を見出していかなければならない。
そしてそのことが発見できれば、われわれはこの古い世界を新しい世界に創り変えることができるであろう。また人間をもよりよい人間へと創り変えていくことができるであろう。
愛が唯一の道である。

(参考:日本キリスト教団出版局「真夜中に戸をたたく―キング牧師説教集」クレイボーン・カーソン、ピーター・ホロラン編、梶原寿訳)