“私”の所在

owl“私”とは、一体誰でしょう?
“私”としているものは、何なのでしょうか?

私は、「こういう人だ」と自分で決めた私のことでしょうか? それとも、「あなたはこういう人だ」と他人が決めた私のことでしょうか?
では、私は、名前でしょうか? 私は、国籍でしょうか? 私は、人種でしょうか?
それとも、私は、職業でしょうか? 私は、地位でしょうか? 私は、賞でしょうか? 私は、家でしょうか? 私は、お金でしょうか? 私は、・・・?
どれも、私が生まれた後、私にくっついてきたモノです。来ては、去ってくモノです。
それなのに、どうして、それらにしがみつくのでしょう。
生まれるものは、死ぬのです。私をカタチあるものとしたとき、“私”は、生まれて死ぬものになります。

では、頭の中で、あーでもないこーでもないと、絶えず活動している、思考はどうでしょう?
でも、この瞬間に気づくのです。思考について考えた途端、その思考との間にスペースができることに気づきます。そうすると、距離ができて、思考を見ている私がいることに気づきます。
何か、思考が出てきたら、それに同意したり、消そうとしたりせず、ただそのものを見つめてみてください。すると、どうなるでしょう・・・。
思考もカタチです。思考もまた、来ては去っていくのです。
生まれるものは、死ぬのです。私をカタチあるものとしたとき、“私”は、生まれて死ぬものになります。

では、身体はどうでしょう?
身体は、生まれました。だから、死にます。でも、誕生から死への一生のなかでも、身体の細胞は、毎日毎日、生と死を繰り返しています。身体を“私”とするなら、私は毎日毎日、生まれて死んで、生まれて死んで・・・・・いることになります。
そして、誕生から死への一生という言葉を使いましたが、細胞が毎日生死を繰り返しているのなら、私の身体は、老化することはないのかもしれません。
一体何が、私の身体を老化させているのでしょうか?
また、素粒子のレベルで見ていくと、私たちの身体は、スカスカの空間なのだそうです。
一体何が、私を動かしているのでしょう?
一体何が、私を朝目覚めさせるのでしょう?

私はこれまで、多くの死を見てきました。そして、遺体と対面する度に、こう思うのです。
「彼は、ここにはいない。」

何年か前に、テノール歌手の秋川雅史さんが歌ってヒットした、「千の風になって」という詩があります。その詩には、こうありました。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

(参考:「千の風になって」作詞:不明、日本語訳詩、作曲:新井満)

また、「星の王子さま」は、こう言いました。

「ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとうじゃないんだ・・・・・」
ぼくは、だまっていました。
「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持っていけないの。重すぎるんだもの」
ぼくはだまっていました。
「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・・・・」

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

では、五感はどうでしょう?
五感を知覚するには、何かのカタチが必要です。
もし、カタチが何も無かったらどうなるでしょう? 見るモノ、聞くモノ、触れるモノが無かったら・・・。
何も無い。
そして、同時に、「何も無いということに気づいた」ということを知ります。
今、五感を使ったでしょうか? 一体、どんな力が働いたのでしょう?
私たちは、五感だけで知るこの世界を、現実だと思っているのではないでしょうか。

身体で(五感で)知る前にあるのは何でしょう? 思考する前にあるのは? カタチをくっつける前にあるのは?
そこにあるのは、何でしょう?

そこに、大きな癒しを感じる人もいるかもしれません。
あるいは、大きな不安を感じる人もいるかもしれません。

全て、そこから来てそこへ戻っていくのです。そして、ここに、一つである全てを知るのです。
それは、カタチが無いのだから、生まれないし、死なないのです。
では、それは何なのでしょうか?

古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」には、こう書かれています。

誰が確かに知っているのか、ここにいる誰が教えることができるか、
この創造がどこから生じ、どこから来たのか。
神々の出現は、この創造の結果である。
それならそれの出現がどこから来たものかを誰が知ろうか。

この創造はどこから来たのだろう。
何者かが創ったのかそれとも創らなかったのか。
最高天にあって監視する者のみが知っている。
あるいは彼もまた知らないのか。

(参考:リグ・ヴェーダ, X. 129)

“それ”を表すことはできません。何かカタチを持った途端、“それ”ではなくなるからです。
ただ、「それがある」とわかるだけです。
カタチにして表わそうと試みると、今存在しているモノに喩えることしかできない、今ある言葉しか使えないということに気づきます。モノや言葉では表せないものがあるのです。

“それ”を知るためには、どうしたらいいでしょう?

何か一つのことに集中している時、周りで起きていることも、時間も、身体の疲れも、気にならないという経験をしたことがあると思います。その時、とても平和を感じてはいないでしょうか?
でも、この状態から離れた時、つまり、私はコレだアレだ、こうあるべきだなんだと、思考に活発に反応し、周りで起きていることに反応し、カタチ作りやラベル貼りに忙しく活動し始めた時、平和ではなくなります。トラが現れ、誘惑者が現れ、罪や地獄が生まれます。そして、これが唯一の現実だと信じると、また苦しむのです。

ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡―迷宮―」に、こんなことが書かれていました。

「世界装置の放浪者(さすらいびと)よ、
時間のなかで目的をもたぬのがわれら。
無私なる純愛によってのみ
おまえはいまここに到着する。
魂よ、準備せよ、
いまこここそが永遠なのだ!」

(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <4>」ミヒャエルエンデ作、丘沢静也訳)

特別に何かをする必要はないのです。
探しても、見つからないのは、探しているその人を動かしているものが何なのか、ということに気づかないからです。
誰が、探しているのでしょう? それを見ているのは、誰なのでしょう?

シラーは、“それ”についてこう書いています。

その全形態は、しずかに自分自身の中に憩い、そして安住しています。それはまったく寸分の隙もない一つの創造、―― まるで空間の彼方にでもあるかのような、譲歩することもなく、反抗することもなく、―― そこには力と争ってきた力はなに一つなく、時間的なものがはいりこめるような隙は少しもないのです。あの優雅さにいやおうなくとらえられ、ひきつけられ、あの自足性に遠く押しのけられながら、私たちは、最高の静けさと最高の動きの状態の中に同時に立つのです。そしてそこにあの不思議な ―― 知性もなんの概念も持たず、言葉もなに一つの名称をもたないような感動がおこるのです。 (第15信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

あっちこっち行かず、ここに在ればいいのです。過去や未来に行かず、今に在ればいいのです。
すべては、“ここ”に来ては、去っていくのです。
ただ、それを見ているものがあるのです。それは、来ることも、去ることもないのです。

それに気づくと、これまで現実だと思っていたものは、現実ではなくなり、本当の現実を知ります。
そして、大きな生命の流れの中にいるようになるのです。生命との一体感を体験するのです。みんな、ひとつの生命だということを知るのです。
そこに、“私”がいます。

「風の谷のナウシカ」 は、こう言いました。

「私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている。」

(参考:徳間書店「風の谷のナウシカ 第7巻」宮崎駿作)

もう、力を誰かに託すことも、奪うことも必要ないことだとわかるでしょう。
もう、盲目的に無意識に、自分のエゴにも、他人のエゴにも振り回されることはないでしょう。
自分のエゴは、見つけた途端、力を失くしてしまうのですから。
他人のエゴに対しては、同じ土俵に上がらなければ、相手がいなくなるので消えていきます。
「エゴは、私ではない」 それに気づくと、「罪を憎んで、人を憎まず」ということがわかるのではないでしょうか。

意識のあり方が、とても大事なのです。
“集団意識”、“共同創造者”という言葉があります。
私たち一人一人の意識が変わらない限り、革命が何度起きようと、トップが変わろうと、結局しばらくすると、また戻ってしまうのではないでしょうか。

しっかり目を開けて、本当の現実を生きるときです。

死へ向かう創造ではなく、生へと向かう創造を行なうのです。

それを知るには、まず、“ここ”へ来なけばいけないのです。