創造者と観察者

tomatoよく、こう質問されます。

「いつ、完成。って決めるんですか?」

私は、こう答えていました。
「自分の身体から離れる瞬間があります。そうなったら、完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、だから、そこに私は居るけど居ない、って感じになります。」 と。
説明が苦手な私は、これが精一杯。

ふと、ノヴァーリスの本をパラパラ読んでいたら、そこにこう書いてありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく――そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない――その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

ありがたい。壮大に書かれていますが、この感覚です。
だから、よく耳にする、「作品が売れるのは嬉しいけど、自分の子供を嫁に出すようでちょっと寂しい。」 みたいなことは、わかるようで、やっぱりよくわかりません。子供を嫁に出した経験はないし、まして所有物という感覚がありません。

もう一つ、よく質問される問いがあります。

「どうやって想いつくのですか?」

これも、説明が難しい質問です。
想いつくというより、みえたから。です。
私は、それを創るだけです。内と外の循環を繰り返しながら、創り上げていきます。
あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへ変換していく。
制作中は、創造者でありながら、観察者でもあるわけです。

あと、どうしてこんな質問をするのかわからない質問があります。そして、なぜかこの質問が一番多いのです。

「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」

完成までにかかった時間が長いと、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね。」 と、かえってきます。
完成までにかかた時間が短いと、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね。」 と、かえってきます。
・・・・・それで、一体何を理解したのでしょうか。
でも、最近こうじゃないかと想っています。他に訊くことが無いんじゃないかと。作品について、何を言ったらいいのかわからなくて、とりあえずの会話でこの質問をするのじゃないかと。うまく掴めない感覚を、確かな数字で表されることで、掴めるようにしているのではないかと。

無理に、作家と会話をしなくても大丈夫です。
出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのですから。
それに、がっかりすることもあるかもしれません。作品から受けるイメージと作家が、あまりにも違うために。
でも、それもよくあることです。作品は、作家自身から生まれてくるものではありますが、それは、作家自身がまだ知らないことだったりします。また、昔描いた作品を見て、「これは、本当に私が描いたのか・・・・・?」 となることもあるのですから。
作品は、作家自身であって、作家自身ではないのです。作家が意図して創り上げるものと、意図せずに創り上げられるものがあるのです。
だから、作品の説明も100%正確にできるわけではありません。いや、そもそも説明する必要がありません。作品は、説明の必要なくそこに100%の状態であるのですから。言葉での表現が必要なら、はじめから言葉を使っているはずです。

作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界が無くなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分だと想います。
それを説明しなくても、報告しなくても大丈夫です。ちゃんとわかっています。だって、説明できないものでもあるのですから。説明した途端、別物になってしまうこともあるのですから。
私は、その様子を見るだけで大満足です。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができると、とても嬉しくなります。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう想っています。