芸術家の所在、境界が無くなるとき

flower11物語の書き手は、どこにいるだろう?
書き手は、登場するすべての存在になる。すべての場面になる。善にも悪にもなる。
でも、書き手自身は、登場しない。
すべての存在になりながら、光と闇を超えたところ、繰り広げられるドラマの外にいる。
書き手は、誰でもあって、誰でもない。

役者も、そうかもしれない。
役を演じている間はその存在になるけれど、舞台を下りれば、自分に戻る。
演じる役が、自分ではないことを知っている。
すべての存在になりながら、光と闇を超えたところ、繰り広げられるドラマの外にいる。
役者も、誰でもあって、誰でもない。

芸術家は、世界を創り出す。いや、想像力を使うけれど、世界をみつけると言った方が、正確なのだと想う。想像力を使うときは、もうすでに何かをみつけている状態だから。はじめに想像するのではなく、みつける。そして、そこから、どんどん想像の翼を広げていく。
だから、創り出そうとすると、創れない。とにかく創らなければという想いだけでつくっても、何だか気持ちの悪い、ニセモノくさいものが出来上がるだけだ。
だから、ただ待つ。静寂と活動の狭間で、じっと待つ。
日々の出来事、聞いたり見たりしたことからインスピレーションを受けることもたくさんある。でも、このときも、その前まではずっと待っている。内側でみつけるときと、外側でみつけるときがあるのだ。
待っていると、みえてくる。世界が、くるっとこっちを向く。作家と対面する。
そして、その世界をもっと観察するために、奥へ奥へと探索をはじめる。
いろんな発見をしながら、もっと奥へ奥へと進んでいくと、境界が消えていくのを感じる。
そこで、作家は世界になり、世界が作家になる。
すると、作家が描いているのか、世界が描いているのかわからなくなる。
芸術家が、誰でもあって誰でもなくなるのは、この時だ。

そして、その時の感覚は、最高に気持ちがいい。

すべてと一体になる感覚。

芸術家は、知っている。
物語を書く人、詩人、音楽を奏でる人、歌う人、踊る人・・・・・。芸術家は、世界を体験して知っている。
そして、それが、限られた、選ばれた人だけのことではないことも知っている。
それを意識しているか、していないかだけのこと。

一なる全。全なる一。

それは、覚えることではなく、体験によって知ること。
そして、誰もが、それを体験できる。
それに向き合おうとしているか、していないかだけのこと。

わたしは、あなた。あなたは、わたし。

創造者と観察者の間に起きること。
体験したことがあるでしょう?

すべてと一体になる。

だから、私たちは、芸術を無くすことはできない。
そして、世界を支配したい人は、芸術を恐れる。あるいは、利用する。その力を知っているがゆえに。

散文も詩も――すべての美術、音楽、ダンスも――わたしたちの体、わたしたちの存在、そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。物理学者は、宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <わたしがいちばんよくきかれる質問>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私は、私。

誰でもあって、誰でもない。