力をくれた物語の世界(1)

sunsetわけも知らず、この世に自分の故郷がないと感じる人がいるものだ。まわりの人たちが現実と呼ぶものが錯覚に思われる。それは、混乱した、しばしば苦痛を与える夢、はやく覚めればいいと思う夢に思われる。あたかも冷酷な異郷への流刑のごとく、この世にとどまれと、裁きをうけたかのようだ。尽きない郷愁を胸に、もうひとつの現実にあこがれる。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 ―道しるべの伝説―」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

もともと単純にエンデの描く世界が好きで、心地よくて読んでいた(翻訳の素晴らしさもありますが)のですが、なぜ惹かれ、心地よく感じていたのかがわかりました。それは、ミヒャエル・エンデは“それ”をみつけていて、“それ”を私は思い出した。ということです。
それからは、これまで読んでいた他の作家の作品もみんなそうだったんだ。ということもわかり、とても嬉しくなりました。
子供の頃にそれに気づかなかったのは、あまりにそのど真ん中で生きていたからなのかもしれません。

「自由の牢獄」で、翻訳をされた田村都志夫さんは、あとがきで、ミヒャエル・エンデについてこう書いています。

デカルトがあの有名な言葉をはき、ヨーロッパで精神と物質世界の二元論が大手をふって歩きはじめてからもう350年が過ぎた。そして巨視的に見れば、私たちは今日もこの二つに分離せられた世界の、それも物質世界の方を大方現実として生きているのである。ミヒャエル・エンデにとって、このような単次元の現実はあまりに貧しいものだ。エンデ文学では精神世界の現実をはじめ、さまざまな現実の報告が行われる。それはエンデにとって、眼前の現実よりはるかに深い意義を持つ、豊かなものである。なぜなら、それは心の彼方に広がる、私たちがいつもそこから出発し、いつもそこへ帰ってゆく地平だからだ。
・・・中略・・・
現代文明の中で、心の深みに鐘を下し、そこに広がるさまざまな現実を語るとき、エンデの目はいつも前を見ている。ミヒャエル・エンデのファンタジーの花は未来から咲くのである。そしてエンデの不思議は、そこがとりもなおさず心の故郷なのだ、ということにある。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 ―訳者あとがき―」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

私には、「物質世界の方を大方現実として生きている」世界では、カッサカサで息苦しくて、一刻も早くここから立ち去りたいと感じていました。でも、絵を描いたり、何かを生み出すことをしている間は、本当にとても心地良く感じています。恐る恐る暗闇に手を伸ばすときでも。身体がどれだけ疲れても。そこに、“それ”があって、それを説明できなくても、確かに“それ”があるということがわかっている、ただそれだけで安心します。
物語の世界は、そんな私にいつも力を与えてくれていました。そこには、いつもみずみずしい風が吹いています。

私が好きな影響を受けたもう一人の作家(他にもたくさんいて、いや、これまで影響を受けなかったものなどないのですが)の、アーシュラ・K・ル=グゥインは、エッセイ集「夜の言葉」の中で、田村都志夫さんが使った言葉、「心の彼方に広がる、私たちがいつもそこから出発し、いつもそこへ帰ってゆく地平」、「心の故郷」を、ダンセイニの作品中から「内陸(インナー・ランド)」という言葉を使いました。そして、作家と作品に対しては、「解放者であり、指針であった」 と書いています。

私も、何度助けてもらったかわかりません。
みんなが夢中になっていることに、私は夢中になれず、でも、そんな自分を閉じ込めて夢中になった方がいいのかなと思うこともあった私の目を、物語の世界は、そうしなくてもいいんだと、いつも開かせてくれました。
物語に書かれている言葉は、外からよく聞こえてくる言葉よりもずっと共感できることでした。

ミヒャエル・エンデは、「親愛なる読者への四十四の質問」で、「読者と本のあいだで起こることは、どこで起きるのでしょうか?」 と問いかけます。

本を読んだことのある人なら誰でも経験していること。
芸術と対面したとき誰もが経験すること。
その場所を忘れてはいけないのだと想います。

またしてもヒエロニムスは長い間、もの思いに沈んだ。そして、かすかな力をふりしぼって、こう答えた。「聖書に書かれている、徴と奇跡は、まったく普通の人々にも起こったのではないでしょうか」
・・・中略・・・
この光の前では罪や功労が問題ではない。もうひとつの世界では、そのようなものはないのだ。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 ―道しるべの伝説―」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)