私と世界の観察日記―旧世界と新世界の狭間にて―」カテゴリーアーカイブ

誰の物語の中にいるのだろう? 本当の望みは何だろう?

yellow03歴史家: 「私の書いた本だ。書いてしまえば、それが歴史だ。」「私の最新作、フランス革命の本だ。」
王子さま: 「真実なの?」
歴史家: 「(What?)」
王子さま: 「真実」
歴史家: 「・・・・・つづりは?」

(参考:映画「The Little Prince ―星の王子様―」スタンリー・ドーネン監督、字幕翻訳・篠原有子)

私たちは、誰かがつくった物語の中にいるのだろうか?

永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る 心のずっと奥の方

「情熱の薔薇」 作詞・作曲:甲本ヒロト

これまで教えられてきた事は、本当のことだろうか?
私は、誰を演じているのだろう?

「ですが結局」 と若者は困りはてて言う。「結局、あいつは牡牛の頭なのです。怪物です、自然界の奇形です、人間を生贄として要求するものです!」
「どこから、そういうことを聞いたのですか」 と娘は穏やかたずねる。
「そうゆう噂です。みんながそう言います。王女様の御父君も。いや、あいつを産んだ御母君までもが」
「ええ、そう、昔からよくある話、いつもの」 と彼女はうんざりしてこたえる。「昔からよくある話によって、みんなは善悪の区別をしようとする。だが世界の記憶のなかでは、すべてはひとつで、必然なのです」
そして短い沈黙のあと彼女がつけ加える。「そして、もしも私たち人間がずっと前に世界の記憶をすべてなくしてしまっているとしたら、世界の記憶はすべてどこへ行くのでしょう?」
「ですが、ぼくより先にこの扉を通った者たちは」 と若者は混乱して叫ぶ。「あいつに呑みこまれてしまったのです!」
「私たちはだれの記憶もありません。その人たちがどうなったか、どうして私たちにわかるのですか?」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <30>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

これまで、感動をよぶ物語は、どんなストーリーだっただろう?
・・・・・まずは、困難な状況や、苦労する場面。そして、そこから這い上がったり、救われる物語が多いきがする。
ヒーローが登場する物語には、他にどんなキャラクターが登場していただろう?
・・・・・やっぱり、悪役が登場して、最後には、その悪役をやっつける物語が多いきがする。

善と悪。光と闇。
お互いが必要で、がっしり手を繋いでいるようだ。
でも、その光は、本当の光だろうか? その悪は、本当に悪いだけなのだろうか?

この物語を続けようか? それとも、別の物語を綴ろうか?

登場人物たちは、みんな同じような顔や体型で、同じような性格にしてみよう。
舞台は、どこに行っても同じような土地で、変化のない日々にしてみよう。
この設定で、どんな物語が書けるかな?
・・・・・ホラーなら書けそうだけど、想像する範囲は狭くて、あんまり楽しくない感じがする。

じゃ、登場人物は、みんな個性豊かな存在たちにしよう。
そして、舞台も変化に富んだ場所にしよう。
この設定なら、どうだろう?
・・・・・何だか、楽しそうだ。次は何が起きるだろうかと、ドキドキワクワクしながら、想像を広げて書けそうだ。

それから、たくさん殺すことが、自己犠牲が、何かを奪って勝ち取ることがヒーローになるのではないのがいいな。
・・・・・だって、敵はいないもの。
感動をよぶ物語が、不幸自慢や、悲しみや苦しみから生まれるものではないのがいいな。
・・・・・だって、不幸な人はいないもの。
自然を敵にしないのがいいな。
・・・・・だって、一緒に生きているんだもの。

誰かがつくった物語を抜け出したら、そこで、何を見つけるだろう・・・・・?

さて、そこからどんな世界の物語を綴ろうか? どんな役を演じようか?

「わたくしが望みを統べる君と呼ばれていることは、知っているでしょう。」 まろやかな声がいうのが聞こえた。「さあ、どんな望みがありますか?」
バスチアンはちょっと考えてから、おそるおそるたずねた。
「ぼく、いくつまで望みをいっていいんですか?」
「いくらでも好きなだけ。――多ければ多いほどいいのです、バスチアン。それだけファンタージエンが豊かに、さまざまな形になるでしょう。」
バスチアンはこの思いがけない申し出にどぎまぎしてしまった。突然無限の可能性が目の前に開けてみると、望みはかえって一つも出てこなかった。
「ぼく、わからないな。」 バスチアンはとうとういった。
しばらくしんとしていたが、やがて小鳥のようにやさしい声がいった。
「それは困りましたね。」
「どうしてですか?」
「それではファンタージエンが生まれないからです。」
バスチアンは途方にくれてだまった。すべては自分しだいだということは、無制限な自由をたのしんでいるバスチアンに少し迷惑なことだった。
「どうしてこんなに暗いんですか、月の子(モンデンキント)?」 かれはたずねた。
「始めというものは、いつも暗いのです、バスチアン。」

(参考:岩波書店「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ作、 上田 真而子、佐藤真理子訳)

誰かがつくった物語を抜け出して、自分の物語を生きてみませんか?

勇気を出して。

暗闇に、何を見ますか?
静寂に、何を聞きますか?
自由を手に、どこへ行きますか?

世界は、いつでも、あなたの望みを待っています。

バスチアンはライオンに宝のメダルの裏に記された文字を見せてたずねた。「これは、どういう意味だろう? 『汝の 欲する ことを なせ』というのは、ぼくがしたいことはなんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」
グラオーグランマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。
「ちがいます。」 あの、深い、遠雷のような声がいった。「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意思を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」
「ぼくの真の意思だって?」 バスチアンは心にとまったそのことばをくりかえした。「それは、いったい何なんだ?」
「それは、あなたさまがご存じないあなたさまご自身の深い秘密です。」
「どうしたら、それがぼくにわかるだろう?」
「いくつもの望みの道をたどってゆかれることです。一つ一つ、最後まで。それがあなたさまをご自分の真に欲すること、真の意思へと導いてくれるでしょう。」
「それならそれほどむずかしいことも思えないけど。」 バスチアンはいった。
「いや、これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです。」 ライオンはいった。
「どうしてだい?」 バスチアンはたずねた。「ぼくは怖れないぞ。」
「怖れるとか怖れないとかではない。」 グラオーグランマーンは声を荒げていった。「この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。」

(参考:岩波書店「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ作、 上田 真而子、佐藤真理子訳)

本当の望みは、何でしょう?

何をするために、ここへ来たのでしょう?

 

 

必要なことだけを

sun旅行に行ってきた人に見せてもらったパンフレットの片隅に、こんな言葉がありました。

DOING NOTHING IS DOING ALL

―「倉敷珈琲館」パンフレットより。

行動をすることが、世界を動かす全てじゃない。

そこに、エゴが入っていたらどうなるだろう?
自分が善いことだと想ったことでも、別の人にとっては善いことではない場合もある。

何もしないことが、世界を動かすこともある。

世界が、世界自身で世界を動かす。
それによって、それぞれの治まるべきところに治まることができるのではないだろうか。

行動をすることが、全てじゃない。

エゴと、本当の意志を見極めなければいけない。

「いいかね、アレン、何かするということは、簡単に石ころでも拾って、投げて、あたるかそれるかして、それでおしまい、などと、そんな、若い者が考えるようなわけにはいかないんだ。石が拾い上げられれば、大地はそのぶん軽くなる。石を持った手はそれだけ重くなる。石が投げられれば星の運行はそれに応え、石がぶつかったり、落ちたりたりしたところでは、森羅万象、変化が起きる。何をしても、全体の均衡にかかわってくるんだ。一方、風も海も、水や大地や光の力も、それから、けものや緑の草木も、すべてこれらのなすことは首尾よく、正しく行なわれている。いっさいは均衡を崩さぬ範囲でな。暴風や巨大なクジラの潜水に始まり、枯葉が舞い落ちたり、ブヨが飛んだりするのまで、こうしたものは何ひとつ全体の均衡を崩したりはしないんだ。ところが、わしらときたら、今いる世界や、人間同士たがいを支配する力を持っており、そうである限りわしらは、木の葉やクジラや風がその本性にのっとって、ごくごく自然にやっていることを、その気になって学ばなければならない。わしらはどうしたら均衡が保たれるか、それを学ばなければならないのだよ。知性があるのなら、あるように行動しなければ。選択が許されているのなら、それなりの責任を持って行動しなければ。ほめたり、罰したり、そりゃ、このわしにその力がないわけではないが、しかし、そんなことをして人間の運命をいじくりまわすなんて、このわしがいったい何者だと言うんだね。」
「だけど、それなら、」 若者は星空をにらんで言った。「その均衡というのは、何もしないでいれば保たれるというのですか。必要なら、たとえその行為の結果のすべてを予測できなくても、人は踏みきってやってしまわなければならないのではありませんか?」
「心配するな。人間にとっては、何かをすることのほうが何もしないでいることより、ずっと容易なんだ。わしらはいいことも悪いこともし続けるだろう。・・・・・しかし、もしも昔のように、また王があらわれて、大賢人の意見を求め、このわしがその大賢人だったら、わしはこう言うつもりだ。『殿よ、何もなさいますな。そうすることがよきことと思われますゆえ。殿がなさらねばならぬこと、それしか道がないこと、ただそれだけをなさいますように。』・・・・・。」
大賢人の話す声には、思わずその顔を見つめずにはいられない何かがあった。アレンはそのわし鼻を、傷跡の残る頬を、黒く、鋭く光る目を見やった。大賢人の顔は今、再び神々しく輝いているように思われた。アレンは敬愛と、畏怖の念を抱いて大賢人をながめ、(この方は自分などの手の届かないところにおられる)と思った。ところが、じっと大賢人の顔を見つめているうちに、アレンはじっと、その顔を照らすものが、人間の顔をしわまでも消してくまなく照らすあの冷たい魔法の光ではなく、自然界の光そのものであることに気がついた。夜が明けたのだ。朝の日の光が今あまねくあたりを照らし始めたのだ。大賢人の力より、さらに偉大な力があったのだ。

(参考:岩波書店「さいはての島へ ゲド戦記Ⅲ」ル=グウィン作、清水真砂子訳)

関係のない人などいないんだ。

 

 

自由へ

drop子どもの時 夢見たこと
今も 同じ夢に見ている
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ

(参考:「翼をください」 作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦)

自由とは、何だろう?
今、自由に生きているだろうか?

冬の夜の闇の中で
われらの目は夜明けの兆しを求める
凍てつく足枷をはめられていても
心は太陽を渇望する
こんなにも濃い闇に目を覆われ、
こんなにも固く縛りつけられていても
魂はそなたに呼びかける
われらの光に、われらの火に、われらの命になれ、
自由よ!

(参考:河出書房新社「ヴォイス 西のはての年代記Ⅱ」ル=グウィン著、谷垣暁美訳)

自由になりたいと言う人は、本当に自由を望んでいるだろうか?
どうして、自由になる方法を学ぼうとするのだろう?
自由について教える本や人があって、そこに書かれていることだけ、その人が言っていることだけに従えばいい、それ以外は間違っている。そうすることに、自由があるだろうか?
自由は、自分の自由を得るために、他人の自由を奪うことじゃない。
自由は、何かによって得られるものじゃない。
自由とは何かを知らなければ、たとえ、自由な世界になったとしても、それは苦痛になるかもしれない。

自由は、どこにあるのだろう?

自由は、逃げ出すことじゃなく、向き合うこと。
そこで、大きな力を知る。
自由は、いつか掴むものじゃなく、誰かがくれるものじゃなく、ずっと手にしていたもの。
そこで、大きな愛を知る。

「落ちることを学んだら、おまえは落ちることはないだろう。上もなければ下もない。だのにおまえはどこへ落ちるというのだ? 天体の星はたがいに接触することなく、それぞれの軌道で均衡をたもっている。星たちは親戚どうしだからな。私たちの場合だって、そうあるべきだ。私の一部は、おまえのなかにある。私たちは、おたがいでささえあうのだ。他のものに、ささえられることはないだろう。私たちは輪を描く星。だからすべてを捨てるんだ! 自由になれ!」
「どうすれば、おまえの言い分の正しいことがわかるんだ?」 と君は絶望して呼びかける。
「おまえ自身を出発点にして」 と彼はこたえる。 「なぜなら私はおまえのなかにあり、おまえは私のなかにあるからだ。真理ですら、真理どうしでささえあっていて、なにかにもとづいて立っているのではない」

(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <10>」ミヒャエル・エンデ著、丘沢静也訳)

自由は、孤独と責任を伴う。
そこで、大きな成長を得る。
孤独といっても、それは、盲目的な集団意識から離れることであり、全体から切り離されるのではなく、むしろ、もっと深くて高い全体と一体となること。だから、そこに寂しさはない。

多くのサポートがある。
多くの残してくれたものがある。

でも、それは教えられるんじゃなくて、自分で気づくこと。
そうでなきゃ、何になるだろう?

そして、それは、いつかじゃなくて、今気づくこと。
だって、はじめからここにあったのだから。

さあ、自由を手に、どこへ行く?

翼を与え、心を燃えたたせるのは誰か
運命をも死をも恐れさせぬものは誰か
あの鎖を解き、あの堅牢な扉を
こわして外に出してくれるものは誰か
世紀、年、月、日、時
時間の娘と兵士ども ― そしてこの
館には鉄もダイヤも通用せぬ
それを可能にするものは情熱のみ
そこで私はしっかと翼をはって空中にとび立つ
水晶もガラスの壁も恐れずに
空を切って無限へと翔ける

(参考:岩波書店「無限、宇宙および諸世界について」ブルーノ著、清水純一訳)

 

 

決められた性別を超えた“ワタシ”というあり方

yellow02「これからは、男性性の時代から女性性の時代になる」というのをよく聞きますが、それは、「女性が支配するということではない」、「今の社会構造のままで、ただ男性の立ち位置が女性に変わるだけということではない」 という意見に私は賛成です。

女性が支配するというのでは、相変わらず、“支配する者と支配される者”がいることになります。それに、女性であるというだけで、その人は、“優れている”というのでしょうか? そこにも相変わらず、“優劣”が存在しています。
本当に、これが新しい世界のカタチなのでしょうか?
ちょっと前まで、男性の方が優れているのだから女性は引っ込んでいろ、みたいなことから、今度は、女性の方が優れているのだから男性は引っ込んでいろ、というのでしょうか?

100%男性性の男性、100%女性性の女性は、いるでしょうか?
なぜ、男性だからとか、女性だからというだけで、差別をするのでしょう?
なぜ、違うというだけで、優劣をつけるのでしょう?

私は、一応、女性です。
一応というのは、身体は女性ですが、性格は女性寄りって感じはするけれど、確実にどっちかだけとは言い切れません。
そう想うのは、「女子って、○○が好きだよね。」 と言われても、「そうかなぁ? みんながみんな、そうってわけでもないんじゃない?」 と思うし、“女子会”という言葉にはゾッとするし、子どもの頃、自分のことを「わたし」ではなく「ぼく」と言っていたし、とにかく、「女性はこうじゃなきゃ。」みたいなことにはちょっと混乱します。
それから、「“女子力”の高い男性は、ちょっと変。」 みたいなのものもよくわからなくて、例えば、料理やお裁縫は、日々を生きる中で、男性でも女性でもある程度できた方が、自分だけじゃなく、人を助けたり喜ばせたりもできるだろうと思います。「頭がいい女性は、モテないよ。」みたいな言葉もそうで、頭が良ければ(ただテストでいい点がとれるということじゃなくて)、それもまた自分だけじゃなく、人を助けたり楽しませたりもできるだろうと思います。

そもそも、あれこれ分類して、「こうあるべきだ」と囲いを作って押し込め、はみ出したものは認めないみたいなこと自体が、男性性の表れなのではないでしょうか。

性同一性障害(“障害”という言葉がなくなればいいのに・・・。)やLGBTという言葉、他にも新しい言葉ができてきいるようですが、それ以外に第3の性、Xジェンダーという言葉があるようです。

Xジェンダー(X-gender)

出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。女性・男性の性別のいずれでもない性別を区分するかぎりでは、中性というあり方、無性というあり方、両性というあり方、性別という枠組みから脱するといあり方、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。

― Wikipediaより。

それに、日本には彼・彼女のように男女を区別する言葉はありませんでした。西洋文学を翻訳するときに、heとsheを区別する言葉を使うようになったそうです。

「男性とはこう、女性とはこう」と、誰かが決めたイメージに従う必要はあるのでしょうか? その他にも、「大人とはこう」「子どもとはこう」「この年齢の人はこう」「この地域の人はこう」「この国の人はこう」「この団体の人はこう」・・・・・などなど、いろんなイメージが作り出されています。それは、とても窮屈に感じます。自分を変えてしまったり、誤解されてしまったりするかもしれません。自分を出せなくて苦しくなったり、本当の自分ってどんなだったかも忘れてしまうかもしれません。
それよりも、自分自身と向き合い、そこで見つけた“ワタシ”というあり方である方が、ずっと自然なことではないでしょうか。その方が、開放的に感じます。自分に嘘をつくことはなくなるし、相手に対しても、その人そのままを見ることができるようになるのではないでしょうか。(成長しなくてもいいということではありません。)

女性性の時代とは、何でも受け止めるくらいドンと構えた精神力の高い、存在しているだけですべてと繋がっているような大賢人、いや、肝っ玉母ちゃんみたいな、いや、ムーミンママみたいな、いや、素直で笑顔のステキな人が、そのステキな笑顔のままでいられる世界がいいなと想います。

もしわれわれが社会的な両性存在であるとしたら、男性と女性が社会的役割において本質的に完全に同等であるとしたら、法的にも経済的にも平等で、自由においても責任においても、そして自己評価においても同等であるとしたら、社会はまったく異なったものとなるでしょう。そうなった場合にいかなる問題が現れてくるかは皆目、見当がつきません。わたしにわかるのは、ともかく問題が生じるだろうということだけです。ただその中心的な問題は、まず間違いなく、現在の問題と同じものではありますまい。現在の中心的な問題は搾取です――女性に対する搾取、弱者に対する搾取、そして地球に対する搾取。現在の災厄的な状況の源は疎外であり、陰と陽の分離です。均衡と統合が追求される代わりに、支配への闘争が繰り広げられている。分裂が主張され、相互依存は拒絶される。現在のわれわれを破滅に落とし入れている価値の二元性――強者/弱者、支配者/被支配者、所有者/被所有者、行使者/被行使者といった二元性――これが果たして、わたしにとって、現在から見て遥かに健全で堅固な、より期待しうる様態と思えるもの、すなわち、統合と無欠の状態への道を護ることはありうるでしょうか。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <性は必要か?>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

 

 

“私”の所在

owl“私”とは、一体誰でしょう?
“私”としているものは、何なのでしょうか?

私は、「こういう人だ」と自分で決めた私のことでしょうか? それとも、「あなたはこういう人だ」と他人が決めた私のことでしょうか?
では、私は、名前でしょうか? 私は、国籍でしょうか? 私は、人種でしょうか?
それとも、私は、職業でしょうか? 私は、地位でしょうか? 私は、賞でしょうか? 私は、家でしょうか? 私は、お金でしょうか? 私は、・・・?
どれも、私が生まれた後、私にくっついてきたモノです。来ては、去ってくモノです。
それなのに、どうして、それらにしがみつくのでしょう。
生まれるものは、死ぬのです。私をカタチあるものとしたとき、“私”は、生まれて死ぬものになります。

では、頭の中で、あーでもないこーでもないと、絶えず活動している、思考はどうでしょう?
でも、この瞬間に気づくのです。思考について考えた途端、その思考との間にスペースができることに気づきます。そうすると、距離ができて、思考を見ている私がいることに気づきます。
何か、思考が出てきたら、それに同意したり、消そうとしたりせず、ただそのものを見つめてみてください。すると、どうなるでしょう・・・。
思考もカタチです。思考もまた、来ては去っていくのです。
生まれるものは、死ぬのです。私をカタチあるものとしたとき、“私”は、生まれて死ぬものになります。

では、身体はどうでしょう?
身体は、生まれました。だから、死にます。でも、誕生から死への一生のなかでも、身体の細胞は、毎日毎日、生と死を繰り返しています。身体を“私”とするなら、私は毎日毎日、生まれて死んで、生まれて死んで・・・・・いることになります。
そして、誕生から死への一生という言葉を使いましたが、細胞が毎日生死を繰り返しているのなら、私の身体は、老化することはないのかもしれません。
一体何が、私の身体を老化させているのでしょうか?
また、素粒子のレベルで見ていくと、私たちの身体は、スカスカの空間なのだそうです。
一体何が、私を動かしているのでしょう?
一体何が、私を朝目覚めさせるのでしょう?

私はこれまで、多くの死を見てきました。そして、遺体と対面する度に、こう思うのです。
「彼は、ここにはいない。」

何年か前に、テノール歌手の秋川雅史さんが歌ってヒットした、「千の風になって」という詩があります。その詩には、こうありました。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

(参考:「千の風になって」作詞:不明、日本語訳詩、作曲:新井満)

また、「星の王子さま」は、こう言いました。

「ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとうじゃないんだ・・・・・」
ぼくは、だまっていました。
「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持っていけないの。重すぎるんだもの」
ぼくはだまっていました。
「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・・・・」

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

では、五感はどうでしょう?
五感を知覚するには、何かのカタチが必要です。
もし、カタチが何も無かったらどうなるでしょう? 見るモノ、聞くモノ、触れるモノが無かったら・・・。
何も無い。
そして、同時に、「何も無いということに気づいた」ということを知ります。
今、五感を使ったでしょうか? 一体、どんな力が働いたのでしょう?
私たちは、五感だけで知るこの世界を、現実だと思っているのではないでしょうか。

身体で(五感で)知る前にあるのは何でしょう? 思考する前にあるのは? カタチをくっつける前にあるのは?
そこにあるのは、何でしょう?

そこに、大きな癒しを感じる人もいるかもしれません。
あるいは、大きな不安を感じる人もいるかもしれません。

全て、そこから来てそこへ戻っていくのです。そして、ここに、一つである全てを知るのです。
それは、カタチが無いのだから、生まれないし、死なないのです。
では、それは何なのでしょうか?

古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」には、こう書かれています。

誰が確かに知っているのか、ここにいる誰が教えることができるか、
この創造がどこから生じ、どこから来たのか。
神々の出現は、この創造の結果である。
それならそれの出現がどこから来たものかを誰が知ろうか。

この創造はどこから来たのだろう。
何者かが創ったのかそれとも創らなかったのか。
最高天にあって監視する者のみが知っている。
あるいは彼もまた知らないのか。

(参考:リグ・ヴェーダ, X. 129)

“それ”を表すことはできません。何かカタチを持った途端、“それ”ではなくなるからです。
ただ、「それがある」とわかるだけです。
カタチにして表わそうと試みると、今存在しているモノに喩えることしかできない、今ある言葉しか使えないということに気づきます。モノや言葉では表せないものがあるのです。

“それ”を知るためには、どうしたらいいでしょう?

何か一つのことに集中している時、周りで起きていることも、時間も、身体の疲れも、気にならないという経験をしたことがあると思います。その時、とても平和を感じてはいないでしょうか?
でも、この状態から離れた時、つまり、私はコレだアレだ、こうあるべきだなんだと、思考に活発に反応し、周りで起きていることに反応し、カタチ作りやラベル貼りに忙しく活動し始めた時、平和ではなくなります。トラが現れ、誘惑者が現れ、罪や地獄が生まれます。そして、これが唯一の現実だと信じると、また苦しむのです。

ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡―迷宮―」に、こんなことが書かれていました。

「世界装置の放浪者(さすらいびと)よ、
時間のなかで目的をもたぬのがわれら。
無私なる純愛によってのみ
おまえはいまここに到着する。
魂よ、準備せよ、
いまこここそが永遠なのだ!」

(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <4>」ミヒャエルエンデ作、丘沢静也訳)

特別に何かをする必要はないのです。
探しても、見つからないのは、探しているその人を動かしているものが何なのか、ということに気づかないからです。
誰が、探しているのでしょう? それを見ているのは、誰なのでしょう?

シラーは、“それ”についてこう書いています。

その全形態は、しずかに自分自身の中に憩い、そして安住しています。それはまったく寸分の隙もない一つの創造、―― まるで空間の彼方にでもあるかのような、譲歩することもなく、反抗することもなく、―― そこには力と争ってきた力はなに一つなく、時間的なものがはいりこめるような隙は少しもないのです。あの優雅さにいやおうなくとらえられ、ひきつけられ、あの自足性に遠く押しのけられながら、私たちは、最高の静けさと最高の動きの状態の中に同時に立つのです。そしてそこにあの不思議な ―― 知性もなんの概念も持たず、言葉もなに一つの名称をもたないような感動がおこるのです。 (第15信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

あっちこっち行かず、ここに在ればいいのです。過去や未来に行かず、今に在ればいいのです。
すべては、“ここ”に来ては、去っていくのです。
ただ、それを見ているものがあるのです。それは、来ることも、去ることもないのです。

それに気づくと、これまで現実だと思っていたものは、現実ではなくなり、本当の現実を知ります。
そして、大きな生命の流れの中にいるようになるのです。生命との一体感を体験するのです。みんな、ひとつの生命だということを知るのです。
そこに、“私”がいます。

「風の谷のナウシカ」 は、こう言いました。

「私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている。」

(参考:徳間書店「風の谷のナウシカ 第7巻」宮崎駿作)

もう、力を誰かに託すことも、奪うことも必要ないことだとわかるでしょう。
もう、盲目的に無意識に、自分のエゴにも、他人のエゴにも振り回されることはないでしょう。
自分のエゴは、見つけた途端、力を失くしてしまうのですから。
他人のエゴに対しては、同じ土俵に上がらなければ、相手がいなくなるので消えていきます。
「エゴは、私ではない」 それに気づくと、「罪を憎んで、人を憎まず」ということがわかるのではないでしょうか。

意識のあり方が、とても大事なのです。
“集団意識”、“共同創造者”という言葉があります。
私たち一人一人の意識が変わらない限り、革命が何度起きようと、トップが変わろうと、結局しばらくすると、また戻ってしまうのではないでしょうか。

しっかり目を開けて、本当の現実を生きるときです。

死へ向かう創造ではなく、生へと向かう創造を行なうのです。

それを知るには、まず、“ここ”へ来なけばいけないのです。