同じ土俵には上がらない、成長すること

時々、思う。
どうして、大人になってもいじめをするんだろう? と。

子供の頃、少しの間いじめを受けていた時のことを思い出しました。
私がいじめられる前に、「もしかしたら、いじめられるかもよ」と、伝えてきた子がいました。その時点で、どうして止めてくれなかったのだろう、私はどうしたらよかったのだろうと今思うけれど、その後その子の言葉通りいじめというものが始まっていきました。
でも、私をいじめてくるグループの子たち以外は、変わらずに接してくれました。“変わらずに”というのは、可哀想な子を守るというようなことではなく、傍観者というのでもなく、ただ普通に接してくれていました。目立つようないじめでもなかったので、気づかなかった子もいたかもしません。でも、気づいていた子はいて、あの時もしかしたら私の知らないところで何かしてくれていたのかもしれない、と思うこともあります。
私は私で「こんなことをして、なんになるんだろう?」と思っていたし、そもそもいじめてくるグループの子たちと話したこともなかったので、ショックではありましたが、それに抵抗することも沈み込むこともせず、ただそのまま流す、ということをしていました。
ある日、突然はじめて話しかけられた子からのたった一つの質問に一言答えると、次の日からいじめはパタリと終わりました。それによって、私が何でいじめられていたのかがわかったのですが、人間って本当に不思議だな、と思ったのは、卒業が近づいてきたころ、そのいじめをしてきたグループの子たちが話しかけてくるようになりました。いじめについて触れることもなく、何事もなかったかのようでした。だから私も、何事もなかったように接しました。

私はこの経験で、人間は、心のあり方でまったく変わってしまうものなんだ、ということを知りました。そして、“集団”の怖さも知りました。支配するものと、支配されるものがいる“集団”です。それは、リーダーの一言で白も黒に、黒も白に変わってしまう。力によって個々の考えや想いが抑えつけられる。人数が多くなると、ますます固く、解くことが難しくなっていく。
度々、いじめについてのニュースを耳にするけれど、私の場合、私の心の中全部がいじめというものに染まらなかったこと、そして、周りの人たちもいじめに染まらなかったことがよかったのだと思います。

問題は、心のあり方。
いじめをする子にも、何かしらの心の傷や満たされない何かがあるのではないだろうか。自分の心をコントロール出来ず、そのうまくいかないことを自分以外の人に向かう“いじめ”というカタチをとってしまうのではないだろうか。人に向かうのでなく、自傷行為に向かう子もまた。「ねえ、どうして私を愛してくれないの?」と。
いじめられた子のケアだけでなく、いじめをした子のケアも同じくらい大事なことなのではないだろうか。その子が、どうしてそういうことをするにいたったのか。それはきっと、その子だけの問題ではなく、家庭の、そして大人たちが作るこの社会にも、その問題の根があるのではないだろうか。

見方を変えると、この頃の子供たちは、“生きること”を必死で探しているのかもしれない。
自分のいる世界がどんどん広がっていくと、自分と他者を認識して、自分と他者との間に線を引くようになる。社会というものがどんどん迫ってくるように感じ、責任がどっと押しかかり、経験が一気に増えることで、期待と不安が駆けめぐる。
いろんなことを信じる一方で、いろんなことを否定する。
強すぎる生ゆえに、死に憧れる。眩しすぎるがゆえに、汚したくなる。
自分がここに存在しているという実感が欲しくて、自分を大きく見せたくて、人を自分を傷つける。
一緒は嫌だけど、一緒じゃなきゃ嫌なんだ。
子供と大人の狭間、そのアンバランスなグロテスクさが美しい。生きることへ破滅的に真っ直ぐ向かっていく、その痛々しいほどむき出しになっている、その眩しすぎる危うさが美しい。
でも、それはこの時期だけのこと。成長して、別の美しさを手にします。

子供の犯罪が、ショッキングな出来事としてニュースで取り上げられている。ショックではあるけれど、私は、大人が犯罪を犯す方がゾッとします。大人なのに、どうして・・・? と。
子供たちは、いろんな経験をして学んでいる。大人たちは、何をしているのだろう? 大人なのに、どうして奪い合い殺し合うのだろうか? 一体、いつまで・・・?

当たり前のことだけど、いじめをなくそうと思うのなら、まず自分がいじめをしないこと、いじめをしている人に同調しないこと。ママ友の間で、仕事場で、あるいは家庭の中で、いじめは起きていないだろうか?
自分は、他者のことをどう見ているだろう。自分自身のことをどう見ているだろう。自分の内にある悪と向き合ったことがあるだろうか。人を悪と思う心が悪なのでは。その心が、外に悪を生み出しているのでは・・・?
私たちはまず、自分の心の中を見てみなければいけない。差別は、どこから起きるのかと。

他者のすることにイライラしたり、自分はどうせといつまでもいじけていても、何も良くならない。
子供たちは、大人たちを見ている。大人たちが互いの存在を認め合いながらその中で生きていれば、それを見ている子供たちは、そこから学べるはず。いじめたい気持ちが湧き上がってきても、大人たちの生き方を見て、別の選択があることに気づくことができるはず。
子供たちの世界をどうにかしようとするのではなく、大人たちの世界を見つめ直し、考え直すことが先なのではないだろうか。

満たされないこと、思い通りにならないことは、誰にでもあること。でも、そこにいつまでも不満を持ち続けるのではなく、それが私たちを育てているのだと、気づきを与えてくれているのだと思うようになれば、不満のエネルギーはクルッと反転して、私たちを成長させてくれるエネルギーへと変わり、エゴの外に出ることができる。
反抗期はもう終わらせて、愛について考えてみませんか?