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混沌から世界を創る

4色が1本になっている色鉛筆と4色をまだらに固めたクレヨンで絵を描いてみる。
これを使ったことのある方はわかると思いますが、自分の意図した通りにはいかないわけです。ある程度コントロールできるけど、思わぬところで別の色がニョキッとあらわれます。
でも、自分の予想とは別の色が飛び出してきても、そこで投げ出さずに続けていくと、そのうちいい感じになっていきます。飛び出してきた色がうまく手を繋いでくれていることに気づきます。

小さなカオスを握って、真っ白の世界に、いろいろな形の世界を創っていく。

一つの考え方や生き方だけでは、何か大きな変化が起きたとき、あたふたしてしまうのではないだろうか。でも、多様で柔軟な考え方をもった生き方であれば、その時々でうまく対応できるのではないかと思う。
そして、すべての多様なものの中に、背後にあるものに、何かが起きる前や出来上がる前にあるものと繋がっていれば、ただ流されるだけにならずにいられるのではないだろうかと思う。
何か問題が起きたとき、その度に新しいルールを作って対処するのではなく、問題の根本に何があるのかを探すことも大事なのではないだろうか。誰かの思想を覚えるのではなく、思い出すだけでいいんのではないかと、排除すればいいのではなく、それぞれを尊重しながら全体のために変化しながら進んでいく。それがいいのではないだろうかと思う。

さまざまな思想のカオスの中で、まだ何も決まっていない世界に、色とりどりの鮮やかな世界を生み出していけばいい。
すべての中心に、完璧な秩序を持って。

 

 

世界の縁で探索中

searching世界の縁で探索中
常に古くて常に新しい草原が どこまでも広がっている
私は 時の終わりと時の始まりを超えた今 新しい世界の欠片を探している

静寂の音が満ちている
そして 今にも何かが産声を上げそうな気配が満ちている
不意に風が吹いた
それと同時に 視線の先にキラリと光るものを見つけた
私はそこへ走っていくと 小さな海を拾った

掌の中で 小さな波が 時をつくりだした
私が瞬きをすると 掌の中の小さな海は 渦を巻きはじめた
ぐるぐると渦を巻く海は 一回転する度に
ぐるぐると私の掌の中に 入っていった
小さな海が 見えなくなると
私は 海になった

明るくて暗い海の中で 小さな光が瞬いている
私は その光に近づいていった
それと同時に 私はその光景を見ていた
光は 近づいていくと 色とりどりに一層明るく輝きだした
そっと手を伸ばすと 私の手は 光の色に染まっていった
その光景を見ている私に向かって 光が一気に迫りのみ込むと
光は 消え
私は 光になった

何色でもあって何色でもない光の中で 小さな暗闇がたたずんでる
私は知っている あれも私だと
私は その小さな暗闇に 両手を伸ばした
小さな暗闇は 避けるように遠ざかった
私はもう一度 両手を伸ばした
小さな暗闇はブルッと身震いすると 一気に私に迫り飲み込んだ
暗闇は 消え
私は 暗闇になった

静寂の音が満ちている
そして 今にも何かが産声を上げそうな気配が満ちている
常に古くて常に新しい草原が どこまでも広がっている
私は 時の終わりと時の始まりを超えた今 新しい世界の欠片を探している

世界の縁で探索中 また ここへ来てしまった
世界の縁で探索中 この向こうに あるはずなんだ
世界の縁で探索中 まだ 見えない
世界の縁で探索中 知っているのに・・・

世界の縁で探索中
常に古くて常に新しい草原が どこまでも広がっている
私は 時の終わりと時の始まりを超えた今 光を掲げて 新しい世界の欠片を探している

声が聞こえた
もうすぐここへ 光を掲げた みんなが来る

 

 

制作中の想い事

制作中のキャンバスに向かってひたすら描いている姿は、大きなアクションもなく、同じような姿勢でずっと同じ場所にいるように見える。でも、同時に大冒険をしている。耳に聞こえない、目に見えない場所での大冒険。

絵画を観ているとき、そこから聴こえてくる音は、人それぞれ違うのだろう。
本を読んでいるとき、そこに見える風景は、きっと全く同じではないのだろう。
音楽を聴いているとき、そこにあらわれる色もまた違うのだろう。
それぞれの中に、それぞれの世界をみている。
この世界も、また・・・。
でも、共鳴した瞬間は、どうしてあんなに気持ちがいいのだろう。

“始原の遊戯” 好きな言葉の一つ。この冒険に欠かせないもの。
「果てはあるのか?」と、浮かぶままに描いてみる。
行き着く前に、紙とインクがなくなった。物質化は一時中断。“出来上がる”には、いろいろ道具が必要だ。
でも、目を閉じればそこに有る。
どうやら、果てはないようだ。

尽きることのないエネルギー。誰もがそのエネルギー。

“一枚の絵は千語にまさる”。力強い言葉を知った。
言葉であれこれ説明しなくても、その前に立てば、スッと繋がることができるからだろうか。
余白に、そして、それを見る人との間に、世界の秘密がチラリと姿をあらわすからだろうか。

“この世界もまた絵のようだ”。と言う人がいる。
どこに視点を合わせるかで、見える世界が、体験する世界が変わるからだろうか。
そして、自分が成長すれば、同じ世界も違って見えるからだろうか。
まだ意識を向けていないものが、きっとたくさんあるのだろう。
この世界は、可能性で溢れている。

何を描こうか。何を創ろうか。
真っ白なキャンバスに、そっと色を置いたその瞬間、世界が動き出す。
制作中は、地球の仕事。
冒険中は、地球と宇宙との仕事。
睡眠中は、宇宙の仕事。
でも、きっとどんなことでもそうなんだ。誰にだって起きていることなんだ。

 

 

創造者と観察者

tomatoよく、こういう質問がくる。「いつ、完成って決めるんですか?」
私は、こう答える。「自分の身体から離れる瞬間があって、そうなったら完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、観る人それぞれのものになります。だから、そこに私はいるけどいない、ってゆう感じになります」

ノヴァーリスの本の中に、こう書かれているところがありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく ―そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない ―その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

描き終わると、“私のもの”という感覚がなくなってしまう。だから、画面にサインを書くということに昔から抵抗があって、私はほとんど表から見えないところに書いている。本当は、それすらもあまりという感じ。観る人にとっても、色眼鏡が一つかかってしまうんじゃないかというような気もするから。

もう一つ、よく質問される問いがある。「どうやって想いつくのですか?」
想いつくというより、「みえたから」。
私は、それを創るだけ。内と外の循環を繰り返しながら創り上げていく。あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへと変換していく。制作中は、創造者でありながら、観察者でもある。

こんな質問もある。これがとても多い。「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」
完成までに時間が長くかかったのだと答えると、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね」とかえってくる。完成までの時間が短かったと答えると、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね」とかえってくる。
それよりも、ただ“みる”ことをすれば、それだけでいいのでは・・・と思う。

無理に作家と会話をしなくてもいいのだと思う。出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのだから。それに、がっかりすることもあるかもしれない。作品から受けるイメージと作家本人があまりにも違うために・・・。作品は、作家自身から生まれてくるものではあるけれど、それは作家自身がまだ知らないことだったりもする。だから、作品の説明も100%正確にできるわけではない。出来上がった作品から教えられるということは、多々起きていること。作品は、作家自身であって、作家自身ではないのだから。
作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界がなくなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分なのではないだろうか。そして、それを報告しなくてもいいのだと思う。ちゃんとわかっているから。
だって、説明できないものでもあるのだし、説明した途端、別物になってしまうこともあるのだから。
私は、その様子を見るだけで大満足。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができただけで。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう思っています。

 

 

芸術家の所在、世界の境界が無くなるとき

flower11物語の書き手は、どこにいるのだろう?
書き手は、登場するすべての存在になる。すべての場面になる。善にも悪にもなる。でも、書き手自身は登場しない。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
書き手は、誰でもあって、誰でもない。
役者も、そうかもしれない。
役を演じている間はその存在になるけれど、舞台を下りれば、自分に戻る。演じている役が自分ではないことを知っている。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
役者も、誰でもあって、誰でもない。

芸術家は、この世界の中で、世界を創り出す。いや、「世界をみつける」と言った方が正確かもしれない。創り出そうとしても創れない。とにかく創らなければという思いだけでつくってみても、何だか気持ちの悪い、ニセモノくさいものが出来上がってしまう。だから、待つ。静寂と活動の狭間でじっと待つ。それがこっちに来るのをじっと待つ。それに見出されるのをじっと待つ。
日々の出来事や聞いたり見たりしたことからインスピレーションを受けることもたくさんあるけれど、その時も、その前まではずっと待っている。そして、それが目や耳に飛び込んできて、「あ、これね。わかったわ」となる。
待っているとみえてくる。世界がクルッとこっちを向く。そして、その世界をもっと観察するために奥へ奥へと探索をはじめる。
いろんな発見をしながら、もっと奥へ奥へと進んでいくと、外側の世界との境界が消えていくのを感じる。そこで、作家は世界になり、世界が作家になる。すると、作家が描いているのか、世界が描いているのかわからなくなる。芸術家が、誰でもあって誰でもなくなるのは、この時だ。その感覚は、最高に気持ちがいい。その美しさと強さは圧倒的だ。
そして、それが限られた、選ばれた人だけに起きることではないことも知っている。
それを意識しているか、していないかだけのこと。それと向き合おうとしているか、していないかだけのことだと。

散文も詩も ―すべての美術、音楽、ダンスも― わたしたちの体、わたしたちの存在、そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。物理学者は、宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <わたしがいちばんよくきかれる質問>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私は、私。誰でもあって、誰でもない。