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仕事は遊ぶこと、自由な遊びをしよう、いろいろ観察してみよう(2)

suncatcherこの世界について、量や重さや距離など、数字であらわすことができなければ、自分の目で見なければ、耳で聞かなければ、納得しない人がいる。そういう人たちは、絵画を見たとき、どんなことを感じるのだろう?
そこに見えるのは、キャンバスと絵具だけなのだろうか。本を読むとき、そこに見えるのは、紙とインクだけなのだろうか。
“みる”ということが出来なくなったら、人間はどうなってしまうのだろう?

「色」をじっくり観察してみよう。
赤色と青色を用意する。異なる色であれば、何色でもかまわない。
赤色を見たとき、そこから何を受け取るだろう? どんな音が聞こえる? どんな形が見える? どんな温度を感じる? どんな匂いがする? 青色を見たときは、そこから何を受け取るだろう?
今度は、赤色と青色を見比べてみる。そこにどんな違いがあるだろう? 赤色と青色の間に、何を感じるだろう?

「音」をじっくり観察してみよう。
二つの違う音を用意する。高い音と低い音とか、金属を叩く音と木を叩く音とか・・・。
質問は色のときと同じ。まず片方の音だけを鳴らす。その音から、何を受け取るだろう? どんな色が見える? どんな形? どんな温度を感じる? どんな匂いがする?
次に、もう片方の音を鳴らす。どんな色が見える? どんな形? どんな温度を感じる? どんな匂いがする?
今度は、二つの音を聞き比べてみる。同時に鳴らしてみる。そこにどんな違いがあるだろう? 二つの音の間に、何を感じるだろう?

「形」をじっくり観察してみよう。
二つの形を用意する。○と×とか、△と□とか、♡と☆とか・・・。
質問とやり方は同じ。その形から、何を受け取るだろう? どんな色? どんな音? どんな温度? どんな匂い?
二つの形に、どんな違いがあるだろう? 二つの形の間に、何を感じるだろう?

「言葉」もじっくり観察してみる。
二つの言葉を用意する。海と山とか、フワフワとチクチクとか、好きと嫌いとか、赤色と青色とか・・・。その言葉を紙に書いてみる。声に出してみる。
質問は同じ。その言葉から、その言葉の意味以外に何を受け取るだろう? それは、どんな色? どんな音? どんな形? どんな温度? どんな匂い?
二つの言葉を比べたとき、そこにどんな違いがあるだろう? 二つの言葉の間に、何か感じるものはあるだろうか?
このサイトには、こうして言葉がたくさんあるけれど、一体何色に見えているのだろう? どんな音が聞こえているのだろう? どんな温度を、どんな匂いを感じているのだろう・・・?

「感情」もじっくり観察してみる。
二つの感情を用意する。嬉しいと悲しいとか、愛しいと憎らしいとか、美しいと醜いとか・・・。
質問は同じ。その感情を想像したときに湧き上がる感覚以外に何を受け取るだろう? それは、どんな色だろう? どんな音だろう? どんな形だろう? どんな温度だろう? どんな匂いだろう?
二つの感情を比べたとき、どんな違いがあるだろう? 二つの感情の間に、何を感じるだろう?

「思考」についても同じことをやってみる。
こうやってきてみて、はたと気づく。この感覚を、どこで知ったのだろう・・・と。

四大要素、または五大要素の色分けは、どうしてそうなったのだろう? 戦隊もののヒーローたちの色分けは? 信号機の色分けは? 男性と女性の色分けだって・・・。
そのアイディアは、どこから来たのだろう? 出来上がったものだけでなく、出来上がる前や出来上がる過程に意識を向けることも、とても大事なことではないだろうか。

私たちには、多次元的に物事をみる力がある。数値だけであらわすことができない世界があることを、赤色は、数値であらわされる“赤色”だけではないということをさっき確認した。
その目で日々起きる出来事をみてみたら、どうみえるだろう? 直線的、平面的、一次元的にみるのではなく、螺旋状にみたり、立体的、多次元的にみてみる。そうしたら、これまで気づかなかったことが、みえてくるかもしれない。

真っ白のキャンバスに向かったとき、何を感じるだろう?
静寂の空間に立ったとき、何を感じるだろう?
そこに、創造の鼓動を感じないだろうか?
創造の源に手を伸ばし、静寂に創造の音を聴く芸術家、丁寧な暮らし方をしている人たちは、いつも世界の秘密に触れている。
子供たちも、また。

 

 

仕事は遊ぶこと、自由な遊びをしよう、いろいろ観察してみよう(1)

whitebirdモビールを作る。
天井から吊すと、ゆらゆら左右に揺れながら、ゆっくりと全体で回転していく。
左と右、闇と光、静と動、男と女、生と死、あなたとわたし、わたしと世界・・・。二つがバランスを取りながら、一つの中心をもって大きく回転している。片方だけじゃ成り立たない。
この世界は、きっと・・・。

そこにリュースター(サンキャッチャー)をつける。
キラキラと太陽光を反射して、部屋の壁に虹色を映し出す。
どうやって、見えない色がわかるのだろう? それは、光が物質に当たって反射したものをこの目で見ているから。全部反射したものが白色で、全部吸収したものが黒色に見える。そして、光の屈折の角度によっていろいろな色を見る。でも、私たちが見ているのは、白色と黒色、虹色の可視光とよばれる範囲だけ。100%光を反射する“本当の白”、100%光を吸収する“本当の黒”は、この目ではつかめない。
虹色の外側には、何があるのだろう? 紫外線や赤外線は、シミやシワができたり熱を感じたりすることでその存在を知ることはできるけれど、この目で見ることはできない。
私たちが見ているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには見えない色を見る昆虫たちは、どんな世界を見ているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

窓の外で、鳥が鳴いている。
この音は、どうして聞こえるのだろう? それは空気が振動して、それを私たちの耳がとらえているから。音にも私たちが感知できる範囲、可聴域というものがある。
私たちが聞いているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには聞こえない音を聞くイルカたちは、何を話しているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

振動という言葉が出てきたけれど、光も振動している。物質も私たちも振動している。その周波数の違いによって、聞こえる音、見える色、形が違ってくる。この世界を創るものだ。
それが生まれる前は、どうだったのだろう? それが消えた後は、どうなるのだろう?
私たちにはとらえられないものがある。
この世界は、きっと・・・。

子供の頃に遊んだ、ぐるぐる定規(スピログラフ)もやってみる。
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、幾何学模様。ぐるぐるぐるぐる、花のよう。ぐるぐるぐるぐる、銀河みたい。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、何だかみんな、とても似ているな・・・。
この世界は、きっと・・・。

“子供の仕事は遊ぶこと”。という言葉がある。
大人は、どうして遊びと仕事をきっちり分けたがるのだろう? 遊びを悪いものや幼稚なもの、劣っていることや役に立たないこととするのだろう? “真剣な遊び”があるのに・・・。
芸術家は、遊んでいるのか? そう、“真剣な遊び”をしています。

遊ぶことは、想像力を使う。

単純な形の積み木遊びの中で、子供たちは物語をつくる。
丸い積み木は、太陽、月、池、優しい人・・・。四角い積み木は、車、船、机、頑固な人・・・。三角の積み木は、山、木、帽子、意地悪な人・・・。
今度は、組み合わせて家をつくる、お城をつくる、街をつくる、森をつくる、惑星をつくる。王子さまにお姫さま、魔法使いに妖精たち、トリックスターの案内人・・・。
ゴゴゴゴーッ。風が唸るよ。バサバサバサッ。雨が降ってきた。ピカッ、ゴロゴロゴロ。雷も。キャー、大変! どうしよう。ほら、あそこに明かりが見えるよ! 山小屋だ。あそこに行こう! ・・・。さてさて、どんな物語になるだろう?
「いつまで遊んでるの! はやく片づけて勉強しなさい! 悪い大人になっちゃうわよ!」
ママの一撃で空想の世界は終わり。“現実”とされる決められた生き方に従うように要求される。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

泥んこ遊び、楽しいな。
ややっ、カエルさん。ややっ、トンボさん。きれいなお色をしてるのね。
ねえねえ、お団子つくったよ。こっちはあんこが入ったお団子でね、こっちはねえ・・・。
「やだっ! こんなに汚して! キャーッ、カエルなんて触って気持ち悪い! 何を言ってるの! さあ、もう帰るわよ。パパに叱ってもらいましょう。」
ママの一撃で世界から切り離される。“きれい”とされる清潔で整頓された環境に押し込まれる。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

内なる想像が、外への創造に繋がる。豊かな想像が、豊かな世界を創造する。それなのに、その想像力を抑えつけてしまったら、一体何が創造されるだろう・・・。
はたして、今のこの現実とされている世界は、すばらしい世界になっているだろうか?
子供たちは、遊びの中で多くのことを学ぶ。そして、内なる世界と外の世界を十分に遊んだ子供は、とても豊かな大人になるのではないだろうか。そして、そんな彼らが創っていく世界は、とても豊かな世界になるんじゃないだろうか。
子供たちを安全・安心という名の檻の中に閉じこめるのは、本当に、安全・安心なことなのだろうか?

“イマジネーション”と言うとき、わたしが言っているのは、知的感覚的な精神の自由な遊び(フリー・プレイ)のことです。あそび(プレイ)とは、リクリエーション=再創造(リ・クリエーション)、つまり既知のものを組み合わせて新たなものを作り出すこと。自由(フリー)とは、それが目先の実益に執着しない自発的な行為であることを指します。だからといってしかし、これはその自由な遊びが目的を欠いているということではありません。むしろ、なにを目指すかはとても大切な問題です。子どものやる“ごっこ遊び”は明らかに大人の情緒や行動の手習いとなるものです。あそびを知らぬ子どもは大人にもなれません。他方、大人の心の自由な産物が、『戦争と平和』だったり相対性理論だったりするのです。つまるところ、自由は野放しとはちがいます。想像力(イマジネーション)の鍛錬は科学にとっても芸術にとっても不可欠な技巧であり、方法であります。
(中略)
いくつかの能力のなかでも、究極的に言って、イマジネーションとは最も深く、人間的な力のひとつではないかと思うのです。司書として、教師として、親として、作家として、いえ単にひとりの大人として、わたくしたちの子どもの内なるイマジネーションの力を助力し、最上の ―吸収できるかぎり最も純粋で良質の養分を与えてやることによって、それがすくすくと伸び育ち、やがて月桂樹のようにみごとな緑をおいしげらせるようにしてやるのは、わたくしたち大人の心たのしい義務でもあります。そうして、いかなる場合にもけっして、それを抑えつけたり、あざわらったり、子どもっぽいだの男らしくないだのウソの話じゃないかなどと言ってはなりません。
なぜならば、言うまでもなくファンタジーは真実だからです。<事実>ではありません。でも<真実>なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々を生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているからです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <アメリカ人はなぜ竜がこわいか>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

世界の秘密は、隠されることなく、いつでもどこでも、今ここにある。
それを見ないようにしてしまったのは、誰だろう?

 

 

知るとは何だろう?

目の前にあるものは 何だろう?
この手に触れるものは 何だろう?
隣にいるこの人を どれだけ知っているだろう?
遠くにいるあの人を どれだけ知っているだろう?
私のことは・・・?
この世界のことは・・・?

一体どれだけのことを 知っているのだろう?
知るとは 何だろう?

ただ誰かが作ったイメージを 追いかけているだけなのか?
ただ自分で作ったイメージを 握りしめているだけなのか?
あるがままって 何だろう・・・?

知るとは 何だろう?
その答えを知るのは 誰だろう?
この問いは どこから来るのだろう?

作られたイメージを追うことをやめれば みえてくることがある
そこからはじまる ことがある

大きくなった頭の上で
雲は流れ
今日も 空がきれい

 

 

大人と子供、大人が言う「知っている」をやめたら何を知るだろう?

自然(感性)は至ることろで合一し、知性は至るところで区分するのです。そしてさらに理性が再び合一するのです。したがって人間は哲学をしはじめる以前のほうが、その研究をまだ完了していない哲学者よりも真理に近いのです。 (第18信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

時々、思う。
どうして、みんなこの世界のことを知っているかのように生きているけれど、どこでそれを知ったのだろう? と。

私たちは、この世界のことや生きることについて、誰かがこうだと言ったことをただそのまま信じているだけではないだろうか。その点で、まだどんな人の考えも教えられていない子供たちは、大人たちよりも多くのことを知っている、と言えるのではないだろうか。

社会が見せる世界を信じて疑わない大人が、自分を通して自分の言葉に変換することもなく「世の中とはこうゆうものだ。こうゆう生き方をしなければいけないのだよ」とそのまま教えると、子供はどうなってしまうだろう?
子供は、大人と同じことをする。大人が(親が)間違っているなんて、信じたくない。感性の強い子であれば、その言葉のむなしさに気づくかもしれないけれど、大人を傷つけないように自分の思いはしまっておいて、大人の言う通りの振る舞いをするかもしれない。でも、知ったかぶりの大人はそれにも気づかずに、同じ言葉を繰り返していく・・・。

「子供の気持ちがわからない」ということを聞くけれど、誰でも子供だったのだから、その時自分がどんな気持ちでいたのか、どうして欲しかったのかを思い出せばいいのに、と思う。大人たちの言葉に違和感を覚えたことはなかっただろうか。大人たちのことをどう見ていただろう・・・?

私は、「なんだ。大人も知らずに生きているんだ」とわかったとき、これからは自分で学ぼうと思うようになりました。
大人ぶってる大人ほど“本当の大人”とは程遠く、「よく子供っぽいって言われるんだよ」と、“本当の子供”のことをよくわかりもせずヘラヘラしている大人を見ると、ため息が出てしまう。「私は何でも知っている」そんな人ほど、知らないことが多かったのです。そして、そういう大人は、「子供は何も知らない、何もできない」と思っているのです。

大人が言う「知っている」は、一体何を知っているのだろう?
それは「世の中とはこうゆうものなんだ」と言われていることを覚えることだろうか。何かをすることが、「自分がそうしたいから」ではなく、「世間に認められるには」という考え方になることだろうか。
自分で自分の生き方を考えるより、誰かの、みんなの言うことに乗っかった方が楽だし、仲間外れにされるのは嫌だし、私にそんな力もないし・・・。と言いながら。

変わらなくてはいけないのは、知っているフリをしている大人の方なのではないだろうか。
「知らない」ということで、人や自然を傷つけてしまうこともある。
「自分にはまだまだ知らない事がたくさんある」と認めると、そこにスペースができて視野がグッと広がり、凝り固まった思考は柔軟になり、いろんな考え方があることを知ることができ、そうやって知識も経験も増えていく。
そして、「答えはいつも自分の中にある」と認めると、自分自身の深く高いところにアクセスすることができ、そうすると、誰かの言葉に乗っかったり、外側で起きることに反応するのではなく、自分の内側に注意を向けるようになる。そして、世界は目に映る外側の世界だけで起きているのではないのだと気づき、舵を握っているは自分なのだと、世界に対して責任をもつようになる。

自分の世代と次の世代が、全く同じ考え方であることは限らない。
正しいとされていたことが正しくなくなる、ということは多々起きていることではないだろうか。
それなのに、疑うこともなく上が言っているのだからと、次の世代へ次の世代へと同じ考えを押しつけていくのは、窮屈で不自然に感じる。
前の世代のことをすべて否定してもいい、と言っているわけではありません。先人の言葉には、閉じてしまった感覚を蘇らせてくれる言葉や普遍的な考えはたくさんあります。
そして、次の世代の言葉をすべて受け入れるべきだ、と言っているわけでもありません。経験不足による間違いや、感情にまかせた短絡的で一方的な考えをするのも若者です。
どの言葉に共鳴するのかによって、今、自分がどの段階にいるのかを知ることもできるかもしれません。

この世界で、子供たちが生き生きと成長できるようにするには、何をしたらいいだろう?
「子供を守る」とは、何を守ることなのだろう。守ると言いながら、抑えつけてはいないだろうか。
本当の教育とは、“与えることではなく引き出すことなのだ”という言葉がある。
「こうしなければいけない。こうゆう生き方が正しい」と囲って縛りつけるのではなく、「自分が得意なことは何なのか。本当の望みは何なのか」と内側から解放してあげる方が、ずっと自然なことで、それができる大人がステキな大人なのではないだろうか。

私たちは、“この世界でどんな経験をしたいのか、それを達成するために必要なこと(得意なこと、不得意なことなど)は何なのか、そういうことを生まれてくる前に全部自分で決めてきた”という言葉がある。
そうだとしたら、自分と他人を比べて不平不満を言うのはおかしなことだし、目的はみんな違うのだから、自分以外の人の生き方に対して批判をしたり、ましてコントロールしようとするなんてこともできないはず。
個性は、はじめからもって生まれてくるものだから、否定したり無理に作り出したりせず、受け入れ、互いに認め合うことができれば、自分の考え方や経験も広がって、豊かに楽しく生きていけるのではないだろうか。

いろいろな物語を読んでいると、大人と子供の対比がよく書かれていることに気づく。
そこには「大人とはこうだ。子供とはこうだ」と決めつけ、大人の方が優位であるとし、いつも不満を持ちながら自分の得になること以外は追い払う、というような大人と、子供のことを「何も知らない、何もできない人」だとみることはなく、同等に接し、何よりも“子供である”ということを尊敬し、どんなことでもまず静かに話を聞き、相手の力を引き出すようなアドバイスをして送り出してくれるような大人の二パターンが描かれている。
どちらが、“本当の大人”だろう?

ル=グインは、“成熟した大人”という言葉を使って、こう言いました。

成熟とは伸び越えて別物になることではなく、成長することだとわたくしは思います。大人とは<死んでしまった子ども>ではなく、<生きのびえた子ども>なのです。成熟した大人のもつすぐれた能力はすべて子どもに内在するとわたくしは信じていますし、若いうちにそれを大いに励まし伸ばしてやれば、大人になってから正しく賢明にそれを働かせることができるようになる、逆に子どもの頃抑圧し芽をつみとってしまえば、大人になってからの人格も矮小なゆがんだものになってしまうと思います。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <アメリカ人はなぜ竜がこわいか>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

ミヒャエル・エンデはこう言いました。

これまでの生涯を通じて、今日、本当の大人と称されるものになることを、わたしは拒みつづけてきました。つまり、魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、いわゆる“事実”の世界に存在する、あの不具の人間たちです。そして、このとき、わたしはあるフランスの詩人が言った次の言葉を思い出します。まったく子どもでなくなったときには、わたしたちはもう死んでいる。
まだ凡庸になりきらず、創造性が少しでも残る人間なら、だれのなかにも子どもは生きていると、わたしは思います。偉大な哲学者、思想家たちは、太古からの子どもの問いを新しく立てたにほかならないのです。わたしはどこから来たのか? わたしはなぜこの世にいるのか? わたしはどこへ行くのか? 生きる意義とは何なのか? 偉大な詩人や芸術家や音楽家の作品は、かれらのなかにひそむ、永遠の神聖な子どものあそびから生まれたものだと思います。九歳でも九十歳でも、外的な年齢とは無関係に、わたしたちのなかに生きる子ども、いつまでも驚くことができ、問い、感激できるこのわたしたちのなかの子ども。あまりに傷つきやすく、無防備で、苦しみ、なぐさめを求め、のぞみをすてないこのわたしのなかの子ども。それは人生の最後の日まで、わたしたちの未来を意味するのです。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <永遠に幼きものについて>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

幼稚な大人はかっこ悪いけど、子供らしさを失っていない大人は、頼もしく思える。

大人の言う「知っている」を、手放してみませんか?
そこで、あなたは何を手に入れるだろう? 作り上げた大人でいることをやめたとき、あなたは何になるだろう?
子供たちの言葉に、耳を傾けてみませんか? そのとき、輝く真の現実が、再び目の前に広がるでしょう。

「たいへんだ! 隠者がおれたちを追いかけて、海の上を陸地のように走っている。」乗客たちはそれを聞くと、起きあがり、みんな船尾に走り寄った。隠者たちが手をつなぎあって走っているのを、みんなが見た。両端の者が手をふって、とまれと合図をしている。三人がみんな陸地のように、海の上を走っているが、足は動かさない。
船をとめる間もないうちに、隠者たちは船とならんで、ふなべりのすぐ下に近づいた。そして、顔を上にむけると、声をそろえていいだした。
「忘れてしまいました。あなたが教えてくれたことを忘れてしまったんです。くりかえしているうちは、おぼえていたのに、一時間ほどくりかえすのをやめたら、言葉が一つぬけ、忘れてしまって、全部めちゃくちゃになってしまったんです。なに一つおぼえていません。もう一度教えてください。」
高僧は十字を切り、隠者たちのほうに身をかがめて、いった。
「あなたたちの祈りこそ、神様までとどいているのです、隠者のみなさん。わたしはあなたたちを教えるような者ではありません。われわれ罪深い者のためにお祈りをしてください!」
そういうと、高僧は、隠者たちにむかって深々とおじぎをした。すると、隠者たちは立ちどまり、くるりとうしろをむき、海を通って帰っていった。そして、隠者たちが去っていったほうから、朝まで光が見えていた。

(参考:福音館書店「トルストイの民話」レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ作、藤沼貴訳)