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自由へ

drop子どもの時 夢見たこと
今も 同じ夢に見ている
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ

(参考:「翼をください」 作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦)

自由とは、何だろう?
今、自由に生きているだろうか?

冬の夜の闇の中で
われらの目は夜明けの兆しを求める
凍てつく足枷をはめられていても
心は太陽を渇望する
こんなにも濃い闇に目を覆われ、
こんなにも固く縛りつけられていても
魂はそなたに呼びかける
われらの光に、われらの火に、われらの命になれ、
自由よ!

(参考:河出書房新社「ヴォイス 西のはての年代記Ⅱ」ル=グウィン著、谷垣暁美訳)

自由になりたいと言う人は、本当に自由を望んでいるだろうか?
どうして、自由になる方法を学ぼうとするのだろう?
自由について教える本や人があって、そこに書かれていることだけ、その人が言っていることだけに従えばいい、それ以外は間違っている。そうすることに、自由があるだろうか?
自由は、自分の自由を得るために、他人の自由を奪うことじゃない。
自由は、何かによって得られるものじゃない。
自由とは何かを知らなければ、たとえ、自由な世界になったとしても、それは苦痛になるかもしれない。

自由は、どこにあるのだろう?

自由は、逃げ出すことじゃなく、向き合うこと。
そこで、大きな力を知る。
自由は、いつか掴むものじゃなく、誰かがくれるものじゃなく、ずっと手にしていたもの。
そこで、大きな愛を知る。

「落ちることを学んだら、おまえは落ちることはないだろう。上もなければ下もない。だのにおまえはどこへ落ちるというのだ? 天体の星はたがいに接触することなく、それぞれの軌道で均衡をたもっている。星たちは親戚どうしだからな。私たちの場合だって、そうあるべきだ。私の一部は、おまえのなかにある。私たちは、おたがいでささえあうのだ。他のものに、ささえられることはないだろう。私たちは輪を描く星。だからすべてを捨てるんだ! 自由になれ!」
「どうすれば、おまえの言い分の正しいことがわかるんだ?」 と君は絶望して呼びかける。
「おまえ自身を出発点にして」 と彼はこたえる。 「なぜなら私はおまえのなかにあり、おまえは私のなかにあるからだ。真理ですら、真理どうしでささえあっていて、なにかにもとづいて立っているのではない」

(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <10>」ミヒャエル・エンデ著、丘沢静也訳)

自由は、孤独と責任を伴う。
そこで、大きな成長を得る。
孤独といっても、それは、盲目的な集団意識から離れることであり、全体から切り離されるのではなく、むしろ、もっと深くて高い全体と一体となること。だから、そこに寂しさはない。

多くのサポートがある。
多くの残してくれたものがある。

でも、それは教えられるんじゃなくて、自分で気づくこと。
そうでなきゃ、何になるだろう?

そして、それは、いつかじゃなくて、今気づくこと。
だって、はじめからここにあったのだから。

さあ、自由を手に、どこへ行く?

翼を与え、心を燃えたたせるのは誰か
運命をも死をも恐れさせぬものは誰か
あの鎖を解き、あの堅牢な扉を
こわして外に出してくれるものは誰か
世紀、年、月、日、時
時間の娘と兵士ども ― そしてこの
館には鉄もダイヤも通用せぬ
それを可能にするものは情熱のみ
そこで私はしっかと翼をはって空中にとび立つ
水晶もガラスの壁も恐れずに
空を切って無限へと翔ける

(参考:岩波書店「無限、宇宙および諸世界について」ブルーノ著、清水純一訳)

 

 

平和を望むなら平和であれ

goldengreen01世界を変える必要があると想うなら、先ず、自分のことに取り掛からなければ、と想います。

平和を望むなら、攻撃的なエネルギーで世界に立ち向かうよりも、自分自身が平和でいることの方が、ずっとずっとはやく近づくのではないでしょうか。
不安が怒りに変わるのでしょうが、悲しみが憎しみに変わるのでしょうが、イライラしながら平和を望むなんて、何だか変です。
まして、銃を構えながら、「愛してる」なんて・・・・・。
それでは結局、何も守れないんじゃないだろうか。
“守る”って、何なのだろう? 武器を手にして、一体何を守っているのだろう?
自然を壊してまでも、生活に負担をかけてまでも、それは本当に必要なことなんだろうか。
本当の強さとは、何でしょう?
「積極的平和」という言葉を使うのなら、それは人を殺す兵器をいっさい持たない。ということで、その強さを誇る方がかっこいいんじゃないだろうか。

「○○反対!」と声を荒げるよりも、「○○な世界に賛成。」と穏やかにうたう方が、ずっと良いと想います。
そして、○○という言葉を使っている限り、その○○は、無くならないのではないでしょうか。
反対を言うことは簡単です。でも、自分が望む世界はどんな世界なのかを考えたことがあるでしょうか?
本当の望みとは、何でしょう?

反対するということはそれに固執していることなり。
<すべての道はミシュノリに通ず>という諺がある。とすればたとえミシュノリに背を向けて歩き出してもいぜんミシュノリの道にいるのである。下品なものに背を向けるということは自分が下品な証拠なり。もっと別なことろへ行くべきである。別の目的を持つべきである。
さすれば別の道に出よう。

(参考:ハヤカワ文庫「闇の左手」アーシュラ・K・ル=グイン作、小尾芙佐訳)

本当に大事なことって、何なのでしょう?
平和って、何でしょう?
平和は、どこからはじまるのでしょう?

どこかの戦争が終わっても、ひとりひとりの意識が変わらなければ、またどこかで戦争が起きるのではないでしょうか。
噂話、悪口などなど、このくらいと思うかもしれないけど、あっちこっちで、それは聞こえてきます。
そのエネルギーは、世界に放たれているということを気にしたことがあるでしょうか。
そして、そのエネルギーは、いずれ自分に返ってくるのです。
大きいこととか小さいこととか、比べているのは誰なのでしょう?

心を平和に。

ただそれだけです。

何か特別なことをしなくても、空を見上げることをしたら、大地に立っているんだと感じたら、風を感じたら、太陽の熱を感じたら、季節の匂いを嗅いだら、それだけで、世界は変わり、豊かになるのではないでしょうか。
争う世界を無くしたいのなら、自分自身の中の争いごとを止めること。ただ、それだけです。

世界の真の美しさを表現する方が、私は好きです。
真の美しさとは、何でしょう?

樹木そのものがわたしたちにとり、結局はもう何も意味しないとき、環境汚染や自然破壊に対して社会批判的な論を述べても、それが何の役にたつというのでしょう? しかし、その詩のなかで樹木の美しさ、この謎を秘めた存在への兄弟心を体感させてくれる詩人は時代遅れとされ、ほとんど滑稽な過去の遺物とみなされるのに、環境破壊に対して怒りを込めたパンフレットを書く者は、森がかれ自身にとっては現代生活において生物学や化学的な基礎以上の意味を持たなくても、進歩的、いや勇気があるとさえ言われるのです。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <永遠に幼きものについて>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

他人は、変えられない。他人のことは、わからない。その人の、真の生きる目的を、どうして知ることができるだろう?
でも、一つだけわかることがある。それは、草花にも星々にも言えること。
“それ”は、隠されることもなく、いつでもどこでも明かされていること。
新たに創り上げる必要も無く、新たに覚える必要も無いこと。
そして、はじめから、みんなそこにいる。私とあなたも。

他人を追いかけるよりも、自分と向き合ってみてはどうでしょうか。
「今は、忙しいから」「やらなきゃいけないことが他にも沢山あるんだ」・・・・・ なんて言わないで。
ほんの一瞬、ただ静かに向き合えば、“それ”は見出せるはずです。
深刻になる必要はありません。深刻になると視野が狭くなり、考えも心も、固く狭くしてしまいます。
深呼吸をしたり、静かにしていると、スペースができて、全体を見られるようになります。
ごちゃごちゃ考えない何でもない時に、パッと閃いたりするものではないでしょうか。

そこで、見出すものは、何でしょう?

自分を知ることは、世界を知ること。
関係の無いものなど、何も無い。
いつも、自分に戻る必要がある。
そこに、愛があるから。
そして、それに気づいたとき、世界はもっと豊かになる。

歴史は不幸なことに、ある人々を被抑圧者に、ある人々を抑圧者に分けてしまっている。そして被抑圧者が抑圧に対処する方法は、三通りある。その一つは、物理的暴力と人間を腐食してしまう憎しみによって、抑圧者に立ち向かっていくことである。だがこれは間違っている。というのは、この方法の危険性と弱点は、その無益さにあるからである。暴力は、問題の解決よりも、より多くの社会問題を創り出してしまう。
(中略)
もう一つの方法は、抑圧に対して黙認し、譲歩し、あきらめてしまうということである。ある人々はそのようにする。彼らは約束の地に至る過程で、荒野の困難を知り、約束の地に入るのは難しいので、エジプトの独裁者たちの下に戻ろうとする。こうして彼らは、抑圧に対してあきらめ、黙認してしまう。だがこれも解決の道ではない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じぐらい道徳的義務だからである。
だがもう一つの方法がある。それは愛の原理に基づく大衆的非暴力抵抗である。私には、われわれの目が未来に向いている限り、これだけが唯一の解決策であるように思われる。
われわれはこれからの未来と、未来の世代を見つめながら、たった今ここで、この方法を見出して行動していこう。われわれは愛の力、愛の贖罪力を見出していかなければならない。
そしてそのことが発見できれば、われわれはこの古い世界を新しい世界に創り変えることができるであろう。また人間をもよりよい人間へと創り変えていくことができるであろう。
愛が唯一の道である。

(参考:日本キリスト教団出版局「真夜中に戸をたたく―キング牧師説教集」クレイボーン・カーソン、ピーター・ホロラン編、梶原寿訳)

 

 

全部やってあげるのは愛かな?

dolphin助けるって、どうゆうことだろう? 応援するって、力になるって、どうゆうことだろう?
なんでもかんでもやってあげるのは、愛かな?
時々、感じる。
それは、エゴじゃないかな? って。

こんなに、応援しているの! こんなに、尽くしているの! こんなに、愛しているの! こんなに、こんなに、私は、あなたに・・・・・
そんな自分に、酔っていたりして。
それでいて、それに対して、自分の思い通りの応えが返ってこなかったら、怒ったりなんかして。
こんなに、こんなに、私は、あなたを愛しているのに、どうして・・・・・?

愛された方も、それに応えなくちゃと、応えられなかったらどうしようと、別のところに力を使ってしまう。
自分を相手の理想に合うようにと、別の自分を創り上げてしまう。

それはまるで、力を与えているようで、奪っているようだ。
力をもらっているようで、明け渡しているようだ。

時々、想う。
放っておくのも、愛なんじゃないかな? って。
縛りつけるのではなく、自由に解放してあげることの方がいいんじゃないかな? って。
相手が十分に、“今”を感じられるように。十分、“自分”でいられるように。

全部やってあげて、何になるだろう?
転んだって、そこから学ぶことは多い。
だから、それを奪うことは、大きなチャンスを奪うことになるかもしれない。
いつでも安心して帰ってこられる場所を作っておいてあげればいいんじゃないだろうか。

不幸なんて無いんだ。
全部助けてもらう必要なんて無いんだ。
力は、自分の中にあるのだから。
それに気づかせてあげるのが、愛じゃないかな?

「こうしてはいけない。」 と言われると、それをしたくなる。
「こうあるべきだ。」 と言われると、それをしたくなくなる。
人間は、不思議で、面白い。
じゃ、「自分の好きなようにやりなよ。」 と言われたら、何をする?