“私”について」タグアーカイブ

透明なヴィジョンの世界と色とりどりのリアルな世界

透明な風が 身体の中に吹き込む
透明な水が 身体の中を流れる
透明な光が 身体の中に灯る
私は 透明なヴィジョンを見る
私の中で 世界が生まれる

虹色の風が 身体の中に吹き込む
虹色の水が 身体の中を流れる
虹色の光が 身体の中に灯る
私は 虹色のフォルムを見る
私の中で 世界が形作られていく

暗闇が 私の身体を抑える
暗闇が 私の目をふさぐ
暗闇が 私の口を閉ざす
私は 透明なサウンドを聞く
私の中で 世界がうたいだす

私は そこから来たのだろうか?
でも そこはどこだろう?
それを 知ることなんてできないと そんな確信を持っている
でも ずっとずっと前から知っているような 懐かしい匂いのするところだと
なぜか そんな確信を持っている

透明な風が 世界に吹き込む
透明な水が 世界を流れる
透明な光が 世界に灯る
私を通して リアルな世界が生まれていく

虹色の風が 世界に吹き込む
虹色の水が 世界を流れる
虹色の光が 世界に灯る
私を通して リアルな世界が形作られていく

暗闇が 世界を覆う
私を通して リアルな世界がうたいだす

共鳴し合う 二つの世界
私は どこにいるのだろう?
ここは 一体どこだろう?
それを 知ることなんてできないと そんな確信を持っている
でも ずっとずっと前から知っているような 懐かしい匂いのするところだと
なぜか そんな確信を持っている

私は 描き 紡ぎ うたう
生まれた世界が 世界に放たれる
それを 世界が反射する
これは 共同創造
透明なヴィジョンの世界と 色とりどりのリアルな世界の物語
共に創る 宇宙の物語

 

 

願いのために

flower14その願いは
叶わなかったかもしれない

でも
もっと 大きな願いの実現に
より 近づいたかもしれない

失敗を決めるのは 誰かじゃない
成功を決めるのも 誰かじゃない

その人の 本当の願いを 誰が知るだろう?
本人でさえ まだ知らないかもしれないのに

 

 

芸術家の所在、世界の境界が無くなるとき

flower11物語の書き手は、どこにいるのだろう?
書き手は、登場するすべての存在になる。すべての場面になる。善にも悪にもなる。でも、書き手自身は登場しない。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
書き手は、誰でもあって、誰でもない。
役者も、そうかもしれない。
役を演じている間はその存在になるけれど、舞台を下りれば、自分に戻る。演じている役が自分ではないことを知っている。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
役者も、誰でもあって、誰でもない。

芸術家は、この世界の中で、世界を創り出す。いや、「世界をみつける」と言った方が正確かもしれない。創り出そうとしても創れない。とにかく創らなければという思いだけでつくってみても、何だか気持ちの悪い、ニセモノくさいものが出来上がってしまう。だから、待つ。静寂と活動の狭間でじっと待つ。それがこっちに来るのをじっと待つ。それに見出されるのをじっと待つ。
日々の出来事や聞いたり見たりしたことからインスピレーションを受けることもたくさんあるけれど、その時も、その前まではずっと待っている。そして、それが目や耳に飛び込んできて、「あ、これね。わかったわ」となる。
待っているとみえてくる。世界がクルッとこっちを向く。そして、その世界をもっと観察するために奥へ奥へと探索をはじめる。
いろんな発見をしながら、もっと奥へ奥へと進んでいくと、外側の世界との境界が消えていくのを感じる。そこで、作家は世界になり、世界が作家になる。すると、作家が描いているのか、世界が描いているのかわからなくなる。芸術家が、誰でもあって誰でもなくなるのは、この時だ。その感覚は、最高に気持ちがいい。その美しさと強さは圧倒的だ。
そして、それが限られた、選ばれた人だけに起きることではないことも知っている。
それを意識しているか、していないかだけのこと。それと向き合おうとしているか、していないかだけのことだと。

散文も詩も ―すべての美術、音楽、ダンスも― わたしたちの体、わたしたちの存在、そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。物理学者は、宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <わたしがいちばんよくきかれる質問>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私は、私。誰でもあって、誰でもない。

 

 

誰の物語の中にいるのだろう? 本当の望みは何だろう?

yellow03歴史家: 「私の書いた本だ。書いてしまえば、それが歴史だ。私の最新作、フランス革命の本だ。」
王子さま: 「真実なの?」
歴史家: 「(What?)」
王子さま: 「真実」
歴史家: 「・・・つづりは?」

(参考:映画「The Little Prince ―星の王子様―」スタンリー・ドーネン監督、字幕翻訳・篠原有子)

時々、思う。
私たちは、誰かがつくった物語の中にいるのだろうか? と。

私が日々思うことや考えることは、どうやってできたのだろう? はじめからあったのか、それとも後から覚えたことなのか・・・。自分ではこうだろうと考えていたことも、「○○さんはこう言ってたよ」というのを聞くと、自分の考えが揺らいでしまうのはどうしてだろう? 自分の考えに自信満々の人は、どうしてそれが本当だと分かったのだろう・・・?

永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る 心のずっと奥の方

(参考:「情熱の薔薇」 作詞・作曲:甲本ヒロト)

善悪の判断は、どうやってしているのだろう? 私たちの行いを裁くのは、私たちが作った法律。それに基づいて裁判官が判決を下す。でも、復讐や社会的制裁というかたちで裁判官以外の人々が罰を下すこともある。過剰な報道や思い込みによって人を追い込んだり、殺してしまうところまでいってしまうことも起きている。戦争になれば、人殺しが英雄になる世界だ。
死刑を下す人は、裁かれないのか? “悪い人”を懲らしめる人は、“善い人”だから? その人が自分のしたことと向き合う機会を、どうしてその人がそうゆうことをしてしまったのかを私たちが知る機会を、そして、それを知ることで私たちの生き方や社会を見つめ直す機会をバッサリ終わらせてしまうのは、本当に善いことなのだろうか。それに、自分にとって都合の悪いものは排除すればいいという考え方は、殺人者と同じ考え方なのでは・・・。

「ですが結局」 と若者は困りはてて言う。「結局、あいつは牡牛の頭なのです。怪物です、自然界の奇形です、人間を生贄として要求するものです!」
「どこから、そういうことを聞いたのですか」 と娘は穏やかたずねる。
「そうゆう噂です。みんながそう言います。王女様の御父君も。いや、あいつを産んだ御母君までもが」
「ええ、そう、昔からよくある話、いつもの」 と彼女はうんざりしてこたえる。「昔からよくある話によって、みんなは善悪の区別をしようとする。だが世界の記憶のなかでは、すべてはひとつで、必然なのです」
そして短い沈黙のあと彼女がつけ加える。「そして、もしも私たち人間がずっと前に世界の記憶をすべてなくしてしまっているとしたら、世界の記憶はすべてどこへ行くのでしょう?」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <30>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

これまで感動をよぶ物語は、どんなストーリーだっただろう? と考えてみる。
幸せだった日々に、突然思いがけないことが舞い込んでくる。そして、困難な状況におちいって、そこから這い上がってくる物語が多い気がする。
ヒーローが登場する物語には、どんなキャラクターが登場してくるだろう?
悪役は必須だ。そして、ヒーローは最後にその悪役をやっつけて、めでたしめでたしの物語が多い気がする。
善と悪は、互いが必要でがっしり手を繋いでいるようだ。かわいそうな人たちと救世主の関係もまた。
この物語を続けようか? それとも、別の物語を綴ろうか?

登場人物たちは、みんな同じような顔や体型で、同じような性格で、考え方も同じにしてみよう。舞台は、どこに行っても同じような土地で、変化のない日々にしてみよう。この設定で、どんな物語が書けるだろう?
ホラーなら書けそうだけど、想像できる範囲は狭くて、あんまり楽しくない感じがする。のぺっとしてダラダラして、壊れる気配も何かが生まれる気配もない。平穏かもしれないけれど、それを平和とは呼べない気がする。
じゃ、登場人物たちは、みんな個性豊かな存在たちにしてみよう。舞台も変化に富んだ場所で、いろんなことが起きる日々にしてみよう。この設定なら、どうだろう?
何だか楽しそう。創造と破壊が繰り返され、次は何が起きるだろうかとドキドキワクワクしながら想像をグングン広げて書けそうだ。ひっちゃかめっちゃかになりそうだけど、多くの学びも与えてくれそうだ。
それなら、やっぱり善と悪、かわいそうな人たちと救世主の物語を続けた方がいいのだろうか。
否・・・と、もっと別の物語があるのだと、内側から扉を叩く音がする。

問題は目覚めることだ。
(中略)
結局おれは、なにかに気づいたたったひとりの人間というわけじゃないだろう。そんなに抜け目ない人間とは、まるでちがうからな。それについてお喋りをしないと、みんなの意見がまとまったにすぎない。それともみんながしたいのは、まさにそうゆうお喋りなのか? みんなはこの夢が気にいっているのか?
(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <29>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

この世界の物語は、誰が書いているのだろう? その中で、私は誰を演じているのだろう?
誰かが作った物語を抜け出して、自分の物語を生きてみませんか? 生まれながらに罪を背負っているという物語を抜け出して、生命は地球にしか存在しないという物語を抜け出して、幸せな人生は一つのカタチしかないのだとする物語を抜け出してみませんか?

―それはかれの本領ではない。それどころか、そんなことは結局でどうでもいいのである。かれの本領は、任意の運命をではなく、自己独得の運命を見出すこと、そしてそれを自分の中で、完全に徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、逃れようとする試みであり、大衆の理想の中へ逃げもどるころであり、順応であり、自己の内心をおそれることである。

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界は、いつでもあなたの望みを待っています。あなたが、こちらを向いてくれるのを待っています。あなたの本当の望みは、何だったのでしょう? 何をするために、ここへ来たのでしょう?

「わたくしが望みを統べる君と呼ばれていることは、知っているでしょう。」 まろやかな声がいうのが聞こえた。「さあ、どんな望みがありますか?」
バスチアンはちょっと考えてから、おそるおそるたずねた。
「ぼく、いくつまで望みをいっていいんですか?」
「いくらでも好きなだけ。 ―多ければ多いほどいいのです、バスチアン。それだけファンタージエンが豊かに、さまざまな形になるでしょう。」
バスチアンはこの思いがけない申し出にどぎまぎしてしまった。突然無限の可能性が目の前に開けてみると、望みはかえって一つも出てこなかった。
「ぼく、わからないな。」 バスチアンはとうとういった。
しばらくしんとしていたが、やがて小鳥のようにやさしい声がいった。
「それは困りましたね。」
「どうしてですか?」
「それではファンタージエンが生まれないからです。」
バスチアンは途方にくれてだまった。すべては自分しだいだということは、無制限な自由をたのしんでいるバスチアンに少し迷惑なことだった。
「どうしてこんなに暗いんですか、月の子(モンデンキント)?」 かれはたずねた。
「始めというものは、いつも暗いのです、バスチアン。」

(参考:岩波書店「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ作、 上田 真而子、佐藤真理子訳)

私たちは、再び透明な暗闇の中に立つ。
そこに光が立ち上ったとき、私たちの新たな物語がはじまります。

 

 

決められた性別を超えた“ワタシ”というあり方

yellow02時々、思う。
どうして、性別を理由に差別をしたり、優劣をつけたりするのだろう? と。

“これからは、男性性の時代から女性性の時代になる”。という言葉をよく聞くけれど、それは単に「女性が支配するということではない」「今の社会構造のままで、男性の立ち位置が女性に変わるだけということではない」という意見に、私は賛成です。

女性が支配するというのでは、相変わらず支配する者と支配される者がいることになる。そして、女性であるというだけで、その人は優れているというのであれば、そこにも相変わらず優劣という考え方が存在していることになる。
本当に、これが新しい世界のカタチなのだろうか?
ちょっと前まで「男性の方が優れているのだから女性は引っ込んでいろ」みたいなことから、今度は「女性の方が優れているのだから男性は引っ込んでいろ」と?

100%男性性をもった男性、100%女性性をもった女性、そんな偏った人は、実際にいるだろうか?
私は、一応女性です。一応というのは、身体は女性で、性格も女性寄りって感じはするけれど、よく言われている「女性らしさ」というものをすべてもっているかと問われたら、「いいえ」と答えるだろうからです。
「女子って○○が好きだよね」と言われても、「みんながみんな、そうってわけでもないんじゃない?」と思うし、“女子会”という言葉にはゾッとするし、子どもの頃、自分のことを「ぼく」と言っていたし、「女性はこうじゃなきゃ」とか「女性の幸せはこうなること」などと限定されると、何だか嫌な気持ちになります。
「“女子力”の高い男性は、ちょっと変」みたいなのものもよくわからなくて、例えば、料理やお裁縫は、日々を生きる中で、男性でも女性でもある程度できた方が、自分だけじゃなく、人を助けたり喜ばせたりすることもできるだろうと思います。「頭がいい女性は、モテないよ」みたいな言葉もそうで、頭が良ければ(ただテストでいい点がとれるということじゃなくて)、自分だけじゃなく、人を助けたり楽しませたりすることもできるだろうと思います。

そもそも、あれこれ分類して「こうあるべきだ」の囲いを作って押し込めて、そこからはみ出したものは認めない、みたいなこと自体が、男性性のあらわれなのではないだろうか。

性同一性障害(“障害”という言葉がなくなればいいのに・・・)やLGBTという言葉、他にも新しい言葉いろいろとできているようだけれど、第3の性、Xジェンダーという言葉があるようです。

Xジェンダー:
出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。女性・男性の性別のいずれでもない性別を区分するかぎりでは、中性というあり方、無性というあり方、両性というあり方、性別という枠組みから脱するといあり方、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。

(参考:Wikipedia)

「男性とはこう」「女性とはこう」というのは、時代によっても変わっていくのに、それに従わなければいけないとすることは、とても窮屈に感じる。自分を変えてしまったり、誤解されてしまったりすることにもなるんじゃないだろうか。自分を出せなくて苦しくなったり、本当の自分ってどんなだったかも忘れてしまうことにもなってしまわないだろうか。
それよりも、自分自身と向き合い、そこで見つけた“ワタシ”というあり方である方が、ずっと自然なことではないだろうか。その方が開放的に感じる。それができれば、自分に嘘をつくことはなくなるし、相手に対しても、その人をそのままを見ることができるようになるのではないだろうか。だからといって、何も学ばなくてもいい、成長しなくてもいいということではないけれど・・・。

女性だから得意なこと、苦手なこと。男性だから得意なこと、苦手なこと。女性と男性の違いは確かにあって、それはこの世界のとらえ方や物事の考え方にも及ぶ。
でも、それに優劣をつけるのではなく、「そうゆう見方もあるんだ」と受け入れ、尊重し合えれば、「こういうことが難しいだね。それなら、ワタシにまかせて」と互いに補い合うことができれば、私たちは、もっと軽やかに日々を生きていけるんじゃないだろうか。

もしわれわれが社会的な両性存在であるとしたら、男性と女性が社会的役割において本質的に完全に同等であるとしたら、法的にも経済的にも平等で、自由においても責任においても、そして自己評価においても同等であるとしたら、社会はまったく異なったものとなるでしょう。そうなった場合にいかなる問題が現れてくるかは皆目、見当がつきません。わたしにわかるのは、ともかく問題が生じるだろうということだけです。ただその中心的な問題は、まず間違いなく、現在の問題と同じものではありますまい。現在の中心的な問題は搾取です ―女性に対する搾取、弱者に対する搾取、そして地球に対する搾取。現在の災厄的な状況の源は疎外であり、陰と陽の分離です。均衡と統合が追求される代わりに、支配への闘争が繰り広げられている。分裂が主張され、相互依存は拒絶される。現在のわれわれを破滅に落とし入れている価値の二元性― 強者/弱者、支配者/被支配者、所有者/被所有者、行使者/被行使者といった二元性― これが果たして、わたしにとって、現在から見て遥かに健全で堅固な、より期待しうる様態と思えるもの、すなわち、統合と無欠の状態への道を護ることはありうるでしょうか。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <性は必要か?>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)