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私たちはまだ知らない

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

最初の人は 誰だったのか
その人は 何を想ったのか

暗闇に灯る 黄金の砂粒
鯨がうたう 森の中
きみの瞳が 世界を紡ぐ

最初の人は 僕らだった
僕らが それを 望んだから

瞳に明かされる 空のうた
きみが 目を閉じ
世界が 沈黙する

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

否 わたしは 知っている
否 わたしは 知りたい

わたしと私たちときみと僕らの 透明な世界の物語

 

 

創造者と観察者

tomatoよく、こう質問されます。

「いつ、完成。って決めるんですか?」

私は、こう答えていました。
「自分の身体から離れる瞬間があります。そうなったら、完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、だから、そこに私は居るけど居ない、って感じになります。」 と。
説明が苦手な私は、これが精一杯。

ふと、ノヴァーリスの本をパラパラ読んでいたら、そこにこう書いてありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく――そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない――その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

ありがたい。壮大に書かれていますが、この感覚です。
だから、よく耳にする、「作品が売れるのは嬉しいけど、自分の子供を嫁に出すようでちょっと寂しい。」 みたいなことは、わかるようで、やっぱりよくわかりません。子供を嫁に出した経験はないし、まして所有物という感覚がありません。

もう一つ、よく質問される問いがあります。

「どうやって想いつくのですか?」

これも、説明が難しい質問です。
想いつくというより、みえたから。です。
私は、それを創るだけです。内と外の循環を繰り返しながら、創り上げていきます。
あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへ変換していく。
制作中は、創造者でありながら、観察者でもあるわけです。

あと、どうしてこんな質問をするのかわからない質問があります。そして、なぜかこの質問が一番多いのです。

「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」

完成までにかかった時間が長いと、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね。」 と、かえってきます。
完成までにかかた時間が短いと、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね。」 と、かえってきます。
・・・・・それで、一体何を理解したのでしょうか。
でも、最近こうじゃないかと想っています。他に訊くことが無いんじゃないかと。作品について、何を言ったらいいのかわからなくて、とりあえずの会話でこの質問をするのじゃないかと。うまく掴めない感覚を、確かな数字で表されることで、掴めるようにしているのではないかと。

無理に、作家と会話をしなくても大丈夫です。
出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのですから。
それに、がっかりすることもあるかもしれません。作品から受けるイメージと作家が、あまりにも違うために。
でも、それもよくあることです。作品は、作家自身から生まれてくるものではありますが、それは、作家自身がまだ知らないことだったりします。また、昔描いた作品を見て、「これは、本当に私が描いたのか・・・・・?」 となることもあるのですから。
作品は、作家自身であって、作家自身ではないのです。作家が意図して創り上げるものと、意図せずに創り上げられるものがあるのです。
だから、作品の説明も100%正確にできるわけではありません。いや、そもそも説明する必要がありません。作品は、説明の必要なくそこに100%の状態であるのですから。言葉での表現が必要なら、はじめから言葉を使っているはずです。

作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界が無くなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分だと想います。
それを説明しなくても、報告しなくても大丈夫です。ちゃんとわかっています。だって、説明できないものでもあるのですから。説明した途端、別物になってしまうこともあるのですから。
私は、その様子を見るだけで大満足です。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができると、とても嬉しくなります。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう想っています。

 

 

芸術家の所在、境界が無くなるとき

flower11物語の書き手は、どこにいるだろう?
書き手は、登場するすべての存在になる。すべての場面になる。善にも悪にもなる。
でも、書き手自身は、登場しない。
すべての存在になりながら、光と闇を超えたところ、繰り広げられるドラマの外にいる。
書き手は、誰でもあって、誰でもない。

役者も、そうかもしれない。
役を演じている間はその存在になるけれど、舞台を下りれば、自分に戻る。
演じる役が、自分ではないことを知っている。
すべての存在になりながら、光と闇を超えたところ、繰り広げられるドラマの外にいる。
役者も、誰でもあって、誰でもない。

芸術家は、世界を創り出す。いや、想像力を使うけれど、世界をみつけると言った方が、正確なのだと想う。想像力を使うときは、もうすでに何かをみつけている状態だから。はじめに想像するのではなく、みつける。そして、そこから、どんどん想像の翼を広げていく。
だから、創り出そうとすると、創れない。とにかく創らなければという想いだけでつくっても、何だか気持ちの悪い、ニセモノくさいものが出来上がるだけだ。
だから、ただ待つ。静寂と活動の狭間で、じっと待つ。
日々の出来事、聞いたり見たりしたことからインスピレーションを受けることもたくさんある。でも、このときも、その前まではずっと待っている。内側でみつけるときと、外側でみつけるときがあるのだ。
待っていると、みえてくる。世界が、くるっとこっちを向く。作家と対面する。
そして、その世界をもっと観察するために、奥へ奥へと探索をはじめる。
いろんな発見をしながら、もっと奥へ奥へと進んでいくと、境界が消えていくのを感じる。
そこで、作家は世界になり、世界が作家になる。
すると、作家が描いているのか、世界が描いているのかわからなくなる。
芸術家が、誰でもあって誰でもなくなるのは、この時だ。

そして、その時の感覚は、最高に気持ちがいい。

すべてと一体になる感覚。

芸術家は、知っている。
物語を書く人、詩人、音楽を奏でる人、歌う人、踊る人・・・・・。芸術家は、世界を体験して知っている。
そして、それが、限られた、選ばれた人だけのことではないことも知っている。
それを意識しているか、していないかだけのこと。

一なる全。全なる一。

それは、覚えることではなく、体験によって知ること。
そして、誰もが、それを体験できる。
それに向き合おうとしているか、していないかだけのこと。

わたしは、あなた。あなたは、わたし。

創造者と観察者の間に起きること。
体験したことがあるでしょう?

すべてと一体になる。

だから、私たちは、芸術を無くすことはできない。
そして、世界を支配したい人は、芸術を恐れる。あるいは、利用する。その力を知っているがゆえに。

散文も詩も――すべての美術、音楽、ダンスも――わたしたちの体、わたしたちの存在、そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。物理学者は、宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <わたしがいちばんよくきかれる質問>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私は、私。

誰でもあって、誰でもない。