力をくれた物語の世界(1)

わけも知らず、この世に自分の故郷がないと感じる人がいるものだ。まわりの人たちが現実と呼ぶものが錯覚に思われる。それは、混乱した、しばしば苦痛を与える夢、はやく覚めればいいと思う夢に思われる。あたかも冷酷な異郷への流刑のごとく、この世にとどまれと、裁きをうけたかのようだ。尽きない郷愁を胸に、もうひとつの現実にあこがれる。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 ―道しるべの伝説―」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

幼い頃から家には本がたくさんあって、図書館に行くことも好きでした。でも、10代の中頃から20代前半頃までは、本を読まなくなっていました。
その頃は、外側の世界がドドドッと迫ってきて、何とかこれをこなしていかなければ、という感じだったような気がします。そして、いろんなものがあっちからもこっちからも飛び込んできて、いろんな人たちに出会っていろんな経験をしたけれど、これは何か違うという感覚を同時に持っていたような気がします。
それから深い深い谷に落っこちて、ボーッと遠い遠い空を見上げながらまた本を読むようになりました。そして、離れてしまっていたものがドドドッと戻ってきて、“この世界を生きること”のすべてがすでに書かれていたたことに気づき、ようやく自分を取り戻した感じがしました。
子供の頃それに気づかなかったのは、まだ実際に経験をしていなかったからなのかもしれません。そして、外側に向かっていた頃の私は、その道しるべを放り出してしまった。持ったままでは「変わった子」と言われてしまうから・・・。
それなら、持ったままいればよかったのか。それは、わかりません。私は、放り出して目を閉じて、そこでいろいろな経験ができました。褒められるような生き方はできていないけれど、いろいろな自分の感情や考え方、そして、いろいろな人の感情や考え方を知ることができました。
物語の世界は、そんな私に再び力を与えてくれました。そこにはいつもみずみずしい風が吹いていて、“それ”がありました。失われることなく、今もこれからも、それはあり続けるでしょう。

ミヒャエル・エンデさんの「自由の牢獄」の訳者田村都志夫さんの「あとがき」にこうありました。

デカルトがあの有名な言葉をはき、ヨーロッパで精神と物質世界の二元論が大手をふって歩きはじめてからもう350年が過ぎた。そして巨視的に見れば、私たちは今日もこの二つに分離せられた世界の、それも物質世界の方を大方現実として生きているのである。ミヒャエル・エンデにとって、このような単次元の現実はあまりに貧しいものだ。エンデ文学では精神世界の現実をはじめ、さまざまな現実の報告が行われる。それはエンデにとって、眼前の現実よりはるかに深い意義を持つ、豊かなものである。なぜなら、それは心の彼方に広がる、私たちがいつもそこから出発し、いつもそこへ帰ってゆく地平だからだ。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 <訳者あとがき>」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

私もひっちゃかめっちゃかだった頃でも、絵を描いたり何かを生み出すことをしている間は、世界を分けるような感覚はなくなり、そこに“それ”があって、それを説明できなくても、確かにあるという感覚と共にあるときは、安心と解放の中にいることができていました。

魂の奥底にきわめて漠然とした、考えうるかぎりにまったく漠然とした、意識には上がってこない体験が安らいでいます。
この体験が、昼間の目覚めた意識の中に入り込むことはまったくありません。しかし、魂の中に何かが存在しています。ちょうど、からだの中に空腹感が存在するようにです。そして、空腹になると何か食べるものが必要になるように、魂の奥底での体験に由来するこの漠然とした気分にも、何かが必要です。そこで人は切実な思いで手近のメルヘンや民話を読むか、もしくは、芸術的な性質の人であれば自分で何かを創り出そうとします。その際、人は、理論に必要なすべての言葉も、これらの体験についてはまるでどもっているようなものだと感じます。そのようにしてメルヘンのイメージが生まれます。このように意識的に魂をメルヘンのイメージで満たすことは、魂の飢えに栄養を与えることになります。

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <霊学の光のもとにみた童話>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

アーシュラ・K・ル=グゥインさんは、エッセイ集「夜の言葉」の中で、ダンセイニの作品中から「内陸(インナー・ランド)」という言葉を使いました。そして、作家と作品に対しては「解放者であり、指針であった」と書いています。
私たちはその場所を思い出し、忘れてはいけないのだと思います。そこが私たちを再び真の世界へと繋いでくれる場所だからです。
私にとって物語に書かれている言葉は、外側から聞こえてくる言葉よりもずっとずっと共感できることで、本当の力を与えてくれるものでした。

どんな本も受け入れ、誰にでも開放されている図書館がいつまでもあることを願っています。

またしてもヒエロニムスは長い間、もの思いに沈んだ。そして、かすかな力をふりしぼって、こう答えた。「聖書に書かれている、徴と奇跡は、まったく普通の人々にも起こったのではないでしょうか」
(中略)
この光の前では罪や功労が問題ではない。もうひとつの世界では、そのようなものはないのだ。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 <道しるべの伝説>」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)