自由へ

子どもの時 夢見たこと
今も 同じ夢に見ている
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ

(参考:「翼をください」作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦)

時々、思う。
自由とは、何だろう? 今、自由に生きているだろうか? と。

「あんまりだれかを崇拝すると、本物の自由はえられないんだぜ。そうゆうものなのさ。」

(参考:講談社「ムーミン谷の仲間たち」トーベ・ヤンソン作、山室静訳)

「自由になりたいと」言う人は、本当に自由を望んでいるのだろうか?
自由になるための方法を学ぼうとするのは、どうしてだろう? 自由について教える本や人の、そこに書かれていることだけ、その人が言っていることだけに従うことに、自由はあるだろうか?

自由は、何かによって得られるものじゃない。
自由は、自分の自由を得るために、他人の自由を奪うことじゃない。
自由とは何かを知らなければ、たとえ自由な世界になったとしても、それは苦痛になるだけかもしれない。

われわれの人生は自由な行動と不自由な行動とから成り立っている。けれども人間本性の最も純粋な現れである自由な精神に到ることなしには、「人間」という概念は究極まで理解したことにはならない。自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得るのだから。

(参考:ちくま学芸文庫「自由の哲学」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

自由は、逃げ出すことじゃなく、向き合うこと。そこで、大きな力を得る。
自由は、いつか掴むものじゃなく、誰かがくれるものじゃなく、ずっと手にしていたもの。それを知ったとき、大きな愛を得る。
自由は、孤独と責任を伴う。でもそれは、盲目的な集団意識から離れることであり、全体から切り離されるのではない。もっと深くて高いひとつの存在になること。だから、そこに寂しさや自己犠牲という突き放すようなものはない。それを体験したとき、大きな自己を得る。
自由は、限定された場所や時間の中だけのものじゃない。そこから離れたとき、大きな解放を得る。

自由は、教えられたことを覚えるんじゃなくて、自分で気づくこと。そうでなきゃ、何になるだろう?
それはいつかじゃなくて、今気づけること。だって、はじめからここにあったのだから。

翼を与え、心を燃えたたせるのは誰か
運命をも死をも恐れさせぬものは誰か
あの鎖を解き、あの堅牢な扉を
こわして外に出してくれるものは誰か
世紀、年、月、日、時
時間の娘と兵士ども ―そしてこの
館には鉄もダイヤも通用せぬ
それを可能にするものは情熱のみ
そこで私はしっかと翼をはって空中にとび立つ
水晶もガラスの壁も恐れずに
空を切って無限へと翔ける

(参考:岩波書店「無限、宇宙および諸世界について」ブルーノ著、清水純一訳)

さあ、自由を手に、どこへ行く?