世界に不安を抱くあなたへ

one cloud「核シェルターをつくるのは物質的な人間のやることだ。心の中に平和をすでに持っている人は、大生命の避難所の中にいる。悪には避難所はない。イデオロギーによる世界の分裂に加担しないものは、黒人であれ、白人であれ、赤色人であれ、黄色人であれ、次の世界に生を受けることができる。彼らはみな一つ、兄弟なのだ」

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)

時々、思う。
生き残るとは、どうゆうことだろう? と。

荒れる気候に、荒れる人間、世界はどうなってしまうのだろうと恐怖に近いほどの不安を感じ、それを回避するために、浅い呼吸のまま動き回っている人がいる。自分も荒れているということに気づかずに・・・。
頑丈な建物を立てて、たくさんの食料をため込んで、一歩も外に出なければ、私たちは生き残ることができるだろうか? 想像してみる。果たして・・・
頑丈な建物の中で、十分なモノがそろっていて、十分な食事ができても、心が病めば身体は死へと向かうし、ひとりじめしようとする人たちはきっと出てくるだろうし、気に入らない相手がいたら殺し合いが起きるかもしれない。でも、私たちには理性と創造力があるから、それでも何とか工夫してやっていけるかもしれない。でも、太陽の陽に当たらずに生きられるだろうか。人工の太陽を作る? 人工光で野菜を作る時代だし。いや、いっそのこと地球外に脱出する? そんな計画も実際にあるようだし・・・。
でも、そもそもそれを“生きる”と言えるだろうか? それは何だかとても身勝手で無責任のような気がする。私たちは地球にいるのに、その地球に背を向けてまで生き延びようとするのは、どうなんだろう・・・?

自然は敵ではないはず。全体を見ない思い込みだけで動く人間の方が、私は恐い。
自然の脅威には勝てない、と言うけれど、そもそも自然に勝ち負けはないし、自然はすべてを死なせるほどのことはしていない。台風を嫌がるけれど、サンゴにとってはありがたいことだし、大雪は大変だけど、土は栄養たっぷりになって、おいしいお米を作ることができる。それは死と同時に新たな生を生み、循環する大きな生命体のよう。
私たちはどうだろう? 私たちは、すべてを死に至らしめるほどの科学技術をすでに手にしている。それは使えば再生不可能なものを生み出し、何にも繋がるものはなく、輪は回転を止めてしまう。流れが止まれば、後は腐っていくだけだ。私たちは、どうして自ら循環しない死を選んでいるのだろう? 私たちが生き残るためだと言いながら・・・。

自分たちが世界を動かしていると思っている人たちを見ていると、とても怖いことをしているな、と感じることがある。でも、そんな彼らは私たちに何を見せてくれているのだろう? と考えてみる。
彼らがそうすることで、私たちは「もう彼らには任せられない。私たち一人一人がしっかり自分の足で立たなければ!」と思うようになるかもしれない、という考えが浮かぶ。

私たちがやることは、彼らを負かすことではないはず。本当の力がどこにあるのか、本当に世界を動かしているのは誰なのかを思い出すことなのではないだろうか。
私たちが力を取り戻したとき、きっと世界は一変するはず。
否、もうそれはすでにはじまっている。世界のあちこちで。まだニュースには取り上げられていないところ、世界は終わると言っている人たちが目を向けないところではじまっている。
ちゃんと目を開けて自分の足で歩んでいる人たちは、いつの時代にもいた。あれこれ言われながらも、あるいは命がけで繋いできてくれた人たち。そして、私たちの時代にもそれを繋いでいこうとしている人たちはいる。多くの人が、こちらを向いてくれるのを願いながら。

人間が誕生した当初、頭頂にはコパピ(開き戸)と呼ばれる柔らかい部分があった。人間はここを通して生命を受け、創造主と交わったのである。赤い光タウラバの時代、創造の最後の段階で、柔らかい点は固まり閉ざされてしまった。これは人間が死ぬときまで閉じたままであり、死に至って生命が飛び立つために開かれる。
(中略)
「お前たちはある場所へ行く。コパピがお前たちを導くだろう。内なる知恵は、ある光景を示すだろう。それは昼は特定の雲、夜は特定の星となってお前たちを導く。何ももたずに行け。雲が止まり星が止まったとき、お前たちの旅は終わる。」こうして選ばれた人々は第一の世界のあちこちで住み慣れた土地を捨て、昼は雲、夜は星に導かれて旅を始めた。他の人々は「どこへ行くのか」と尋ね、「雲も星もみえないぞ」と言って彼らを嘲笑った。彼らのコパピは頑なに閉ざされ、内なる視界を失ってしまったのである。

(参考:平凡社新書「インディアンの夢のあと 北米大陸に神話と遺跡を訪ねて」徳井いつこ著)

私は何か起きたとき、静かに耳を澄ます。そうすると、心の落ちつきと同時に視界がクリアに広がっていき、やるべき事や行くべき場所を知ることができる。そして、それに疑わずについていくと、つまずくことなく歩いていける。
自分で選んだ道を行けば、他人から見たら失敗だと思われるようなことでも、その先に行った時、もっと大きな視点から見ることができるようになった時には、それは失敗ではなかったことがわかる。そして、あっちこっちから聞こえてくる情報や噂話に振り回されることもなくなり、誰かが作り出した幻想も、自分で作り出した幻想も消えていく。

扉を閉ざすのは、不安や怒り、独りよがりの欲望。そこは閉ざされていて、繋がれるものが何もない。
扉を開けるのは、平和であること。ただ、それだけ。そこは透明な風が吹き、大きな生命と繋がっている。
不安を抱くのは、繋がっていないから。いや、ずっと繋がっているのに、それを忘れてしまっているから。
小さな世界を飛び出して、大きな視点で世界を生きてみませんか?
それは、すでに始まっています。この地球と共に。この宇宙と共に。
壊れていく世界に目を向けるのではなく、創られている世界に目を向けてみませんか?
そのとき、大きな風と共に、新しい世界があなたの目の前にやってくる。そして、グッと背中を押してくれるでしょう。

あなた方は、地球そのものにこれを読みとることができる。前の世界にあった植物が、種子として発芽し始めているのだ。それを読みとれるほどの目があれば、新しい植物学を開けるだろう。同じ種類の種子は天の星々にも植えられつつある。同じ種子がわれわれの心の中に植えられようとしている。このすべては一つであり、あなた方がそれをどう見極めるかにかかっている。これが、次の第五の世界への出現を作るのだ。

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)