“私”の所在

あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで

(参考:小学館「永遠の詩02 茨木のり子 <(存在)>」高橋順子選・鑑賞解説)

時々、思う。
私が、“私”としているものは、何なのだろう? と。

私とは、「こういう人だ」と自分で決めた私のことだろうか? それとも、「あなたはこういう人だ」と他人が決めた私のことだろうか? 私は、名前だろうか、国籍だろうか、人種だろうか? それとも職業だろうか、地位だろうか、○○賞だろうか? あるいは、家だろうか、お金だろうか? 私は、・・・?
それらはどれも、私が生まれた後に私にくっついてきたモノたち。それらがくっついてくる前にも“私”は存在していた。それなのに、どうしてそれらにしがみつくのだろう・・・。

私は、頭の中であーでもないこーでもないと絶えず活動している思考や感情なのだろうか?
でも、何かの考えが浮かんだとき、何かの感情が湧き上がってきたとき、その思考や感情をみつけた途端それとの間に距離ができ、それを見ている私がいることに気づく。急に我に返って、どんしてこんなことをしてしまったんだろう、となったことがある人は多いはず。
思考や感情が生まれる前にも“私”は存在していた。それなにの、どうしてその暴走を止められないのだろう・・・。

私は、この身体だろうか?
身体は、いつか死ぬ。それじゃ、“私”も死ぬのかな?
でも、誕生から死への一生の間でも、身体の細胞は、毎日毎日生と死を繰り返している。身体を“私”とするなら、私は毎日毎日生まれて死んで、生まれて死んでいることになる。
細胞が生と死を繰り返しているのなら、どうして、私の身体は老化するのだろう? 一体何が、身体を老化させているのだろう?
素粒子のレベルでみていくと、私たちの身体はスカスカなのだそう。ニュートリノは、私の身体を難なく通過していく。何の痛みを感じることもなく。
一体何が私を動かしているのだろう? 一体何が毎日私を眠らせ、朝目覚めさせるのだろう?

私はこれまで、遺体と対面する時には「彼(彼女)はここにはいない」と感じ、お墓参りに行っても、「会えた」ということを感じることはありませんでした。
お葬式やお墓参りは、この地上に残った人たちのためにあるのではないかと、私は思っています。故人へ感謝を伝えるために、自分の心の整理のために、そして、死と対面することで、あらためて生と対面できるように。

「千の風になって」という詩に、こうありました。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

(参考:「千の風になって」作詞:不明、日本語訳詩、作曲:新井満)

「星の王子さま」は、こう言いました。

「ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとうじゃないんだ・・・・・」
ぼくは、だまっていました。
「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持っていけないの。重すぎるんだもの」
ぼくはだまっていました。
「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・・・・」

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

“私”は、どこにいるのだろう? 身体じゃないとしたら、どうして死を恐れるのだろう・・・。
しばし沈黙。そして、思考が遠く遠く去って行ったとき、何かがフッとこちらを向く。それが私をのみ込み、私はそれになる。
ハッと気づいた途端、いろいろくっつけてきた、身体をもった私に戻る。「あれは、何だったのだろう? あの感じは・・・」。そして、思考と感情が再び立ち上がる。

古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」に、こう書ありました。

誰が確かに知っているのか、ここにいる誰が教えることができるか、
この創造がどこから生じ、どこから来たのか。
神々の出現は、この創造の結果である。
それならそれの出現がどこから来たものかを誰が知ろうか。

この創造はどこから来たのだろう。
何者かが創ったのかそれとも創らなかったのか。
最高天にあって監視する者のみが知っている。
あるいは彼もまた知らないのか。

(参考:リグ・ヴェーダ, X. 129)

“それ”をあらわすことはできない。“それ”に何かのカタチをつけた途端、“それ”ではなくなるから。カタチにして表わそうと試みると、今私たちが知っているモノに喩えることしかできないし、今ある言葉しか使えないということに気づく。
モノや言葉ではあらわせないものがあるということを知ることは、とても深い豊かさを知ることでもあると思う。

“それ”を知るためには、どうしたらいいだろう?
何か一つのことに集中しているときは、周りで起きていることにも過ぎていく時間にも身体の疲れも気にならない。その間は、とても静かで、ただただ満たされているという感じがある。でも、その状態から離れたとき、私はコレだアレだ、こうあるべきだなどと思考や感情が活発に動き出す。周りで起きていることに反応し、自分のカタチ作りや他人へのラベル貼りに忙しく活動しはじめ、そのことに対してまた反応しはじめる。静けさと満たされた感覚はなくなり、トラが現れ、誘惑者が現れ、罪や地獄が生まれていく。そして、どうして私にはできないのかと悩み、さらに“私”から遠ざかっていく・・・。

特別に何かをする必要はない。特別な日時もなく、特別に何かをそろえなくちゃいけないということもない。○○に行かなきゃいけない。○○に会わなくちゃいけない。○○をそろえなくちゃいけない・・・。そうしなくても、あなたはここにいる。
○○に行って、○○に会って、○○をそろえたら、満足するだろうか? その満足はほんの一時のもので、それが過ぎれば、あなたはきっとまた不安になって、何が足りないのかとあちこち探し回るだろう。
探しても見つからないのは、探しているその人を動かしているものが何なのか、ということに目を向けないから。あなたは、ここにいます。どこにいようと、ここにいます。

シラーは、こう書いています。

その全形態は、しずかに自分自身の中に憩い、そして安住しています。それはまったく寸分の隙もない一つの創造、 ―まるで空間の彼方にでもあるかのような、譲歩することもなく、反抗することもなく、 ―そこには力と争ってきた力はなに一つなく、時間的なものがはいりこめるような隙は少しもないのです。あの優雅さにいやおうなくとらえられ、ひきつけられ、あの自足性に遠く押しのけられながら、私たちは、最高の静けさと最高の動きの状態の中に同時に立つのです。そしてそこにあの不思議な ―知性もなんの概念も持たず、言葉もなに一つの名称をもたないような感動がおこるのです。 (第15信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

すべては、“ここ”に来て、去っていく。雨が走ってきて、私の頭上を通り過ぎ、虹が架かり、空の中に消えていく・・・。
“それ”に気づいたとき、これまで現実だと思っていたものは現実ではなくなり、本当の現実が姿をあらわす。大きな生命の流れの中で一体となる体験をする。みんなひとつの生命なんだということを“私”のすべてで知り、そこで“私”の居場所を知る。

「風の谷のナウシカ」は、こう言いました。

「私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている。」

(参考:徳間書店「風の谷のナウシカ 第7巻」宮崎駿作)

もう、自分の力を誰かに明け渡すことも、奪うことも必要のないことだとわかるでしょう。
もう、盲目的に自分のエゴにも他人のエゴにも振り回されることはないでしょう。
自分のエゴは、見つけた途端、力を失くしてしまうのだから。他人のエゴは、かまうことをしなければ、満たしてくれる相手がいなくなって消えていく。「エゴは私ではない」それに気づくと、「罪を憎んで人を憎まず」ということもわかるのではないだろうか。

私たちを解放してくれる力が、“ここ”にある。
“汝自身を知れ”