創造者と観察者

tomatoよく、こういう質問がくる。「いつ、完成って決めるんですか?」
私は、こう答える。「自分の身体から離れる瞬間があって、そうなったら完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、観る人それぞれのものになります。だから、そこに私はいるけどいない、ってゆう感じになります」

ノヴァーリスの本の中に、こう書かれているところがありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく ―そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない ―その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

描き終わると、“私のもの”という感覚がなくなってしまう。だから、画面にサインを書くということに昔から抵抗があって、私はほとんど表から見えないところに書いている。本当は、それすらもあまりという感じ。観る人にとっても、色眼鏡が一つかかってしまうんじゃないかというような気もするから。

もう一つ、よく質問される問いがある。「どうやって想いつくのですか?」
想いつくというより、「みえたから」。
私は、それを創るだけ。内と外の循環を繰り返しながら創り上げていく。あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへと変換していく。制作中は、創造者でありながら、観察者でもある。

こんな質問もある。これがとても多い。「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」
完成までに時間が長くかかったのだと答えると、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね」とかえってくる。完成までの時間が短かったと答えると、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね」とかえってくる。
それよりも、ただ“みる”ことをすれば、それだけでいいのでは・・・と思う。

無理に作家と会話をしなくてもいいのだと思う。出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのだから。それに、がっかりすることもあるかもしれない。作品から受けるイメージと作家本人があまりにも違うために・・・。作品は、作家自身から生まれてくるものではあるけれど、それは作家自身がまだ知らないことだったりもする。だから、作品の説明も100%正確にできるわけではない。出来上がった作品から教えられるということは、多々起きていること。作品は、作家自身であって、作家自身ではないのだから。
作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界がなくなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分なのではないだろうか。そして、それを報告しなくてもいいのだと思う。ちゃんとわかっているから。
だって、説明できないものでもあるのだし、説明した途端、別物になってしまうこともあるのだから。
私は、その様子を見るだけで大満足。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができただけで。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう思っています。