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平和を望むなら平和であれ

goldengreen01プレベールは言います。「踊れ、すべての国の若者よ。踊れ、踊れ、平和とともに。平和はとても美しく、とても脆い。やつらは彼女を ―「平和」は女性名詞なので女性扱いなのです― 背中から撃つ。だが平和の腰はしゃんとする、きみらが彼女を腕に抱いてやれば」。
そしてこの詩の最後をこう締めくくります。 ―「もしもきみらが戦争を欲しないならば、繕え、平和を」。

(参考:岩波書店「君が戦争を欲しないならば」高畑勲著)

時々、思う。
平和を望んでいると言いながら、どうしてたくさんの武器を持とうとするのだろう? と。

平和を望んでいるのなら、攻撃的なエネルギーで立ち向かうよりも、まず自分自身が平和でいることが重要なのではないだろうか、と思う。
不安が怒りに変わり、悲しみが憎しみに変わる。でも、私たちはその感情のままに行動するのではなく、それを変換する力も同時に持っている。それに、イライラしながら平和を望むなんて、銃を構えながら「愛してる」なんて、何だか変じゃないだろうか。
それでは結局何も守れないのでは? 武器を手にして、一体何を守っているのだろう? 自然を壊してまでも、普段の生活に負担をかけてまでも、それは本当に必要なことなのだろうか。
「積極的平和」という言葉を使うのなら、それは人を殺す兵器をいっさい持たないということのはず。大量の武器を見せつけるよりも、精神の豊かさとその強さを誇る方が、ずっとかっこいいことだと思う。
みんながいっせいに武器を手放す。それができる日は、来るだろうか・・・。

世界をよくしようと言う時に、「○○反対!」と声を荒げるよりも、「○○に賛成」と確かな声で言う方が、ずっといいのではないだろうか。
反対を言うことは簡単だ。でも、自分が望む世界はどんな世界なのかを具体的に考えたことはあるだろうか。○○という言葉を使っている限り、その○○は、なくならないのでは・・・。

反対するということはそれに固執していることなり。
<すべての道はミシュノリに通ず>という諺がある。とすればたとえミシュノリに背を向けて歩き出してもいぜんミシュノリの道にいるのである。下品なものに背を向けるということは自分が下品な証拠なり。もっと別なところへ行くべきである。別の目的を持つべきである。
さすれば別の道に出よう。

(参考:ハヤカワ文庫「闇の左手」アーシュラ・K・ル=グイン作、小尾芙佐訳)

どこかの戦争が終わっても、またどこかで戦争が起きる。噂話や悪口、嫉妬ややっかみなどなども、今日もあっちこっちから聞こえてくる。
そのエネルギーが、世界中に放たれているということを気にしたことがあるだろうか。そして、そのエネルギーは、いずれ自分に返ってくるのだと。
大きいこととか小さいこととか、遠いこととか近いこととか、この世界の中では同じこと。争う世界をなくしたいのなら、まず自分自身の中の争いごとを止めることではないだろうか。
ひとりひとりの発するエネルギーがこの世界の行く方向を決めているのだとしたら、今この瞬間から、あなたは自分が何を考え何をしているのかを気にするようになるだろう。

心に平和を。
その時、世界は真の平和へと動き出す。

歴史は不幸なことに、ある人々を被抑圧者に、ある人々を抑圧者に分けてしまっている。そして被抑圧者が抑圧に対処する方法は、三通りある。その一つは、物理的暴力と人間を腐食してしまう憎しみによって、抑圧者に立ち向かっていくことである。だがこれは間違っている。というのは、この方法の危険性と弱点は、その無益さにあるからである。暴力は、問題の解決よりも、より多くの社会問題を創り出してしまう。
(中略)
もう一つの方法は、抑圧に対して黙認し、譲歩し、あきらめてしまうということである。ある人々はそのようにする。彼らは約束の地に至る過程で、荒野の困難を知り、約束の地に入るのは難しいので、エジプトの独裁者たちの下に戻ろうとする。こうして彼らは、抑圧に対してあきらめ、黙認してしまう。だがこれも解決の道ではない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じぐらい道徳的義務だからである。
だがもう一つの方法がある。それは愛の原理に基づく大衆的非暴力抵抗である。私には、われわれの目が未来に向いている限り、これだけが唯一の解決策であるように思われる。
われわれはこれからの未来と、未来の世代を見つめながら、たった今ここで、この方法を見出して行動していこう。われわれは愛の力、愛の贖罪力を見出していかなければならない。
そしてそのことが発見できれば、われわれはこの古い世界を新しい世界に創り変えることができるであろう。また人間をもよりよい人間へと創り変えていくことができるであろう。
愛が唯一の道である。

(参考:日本キリスト教団出版局「真夜中に戸をたたく―キング牧師説教集」クレイボーン・カーソン、ピーター・ホロラン編、梶原寿訳)

 

 

内にある光と闇と真の光

時々、思う。
みんなにとっての、世界にとっての、“善いこと”とは、何だろう? と。

「“善いこと”をしているつもりなのに・・・」という経験をしたことはないだろうか?
「わたしは、あなたのためを思ってこうしたのよ。それなのに・・・」。それは、本当に相手が望んでいたことだったのだろうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは? それとも、善い人って言われたかったから?

難攻不落の言葉、“正義”とは? “正義”を掲げて人を殺すのは、“善いこと”だろうか?
その人を満たすために必要なのは、自分とは違う考えを持つ者。私が正しいのだから、それを否定する者はみな悪なのだと、それを排除することが「みんなの幸せ」なんだと正義を掲げて闘う。そして、悪だとされた側も、そう言うお前たちこそ悪なのだと、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために闘う。
どちらも同じに見えないだろうか。

自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならない。自分が善い人でいるために不幸な人を探し、不幸な人がいなくならないように。
一体、誰のためだろう? 自分を満たすためだけなのでは? 敵がいる方が都合がいいもの。世界が混乱していた方が、不幸な人がいた方が都合がいいもの・・・と。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる明るい野原に、戦場へ向かう空飛ぶ軍艦のような機体があらわれ、それを見ながらソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

「みんなの幸せ」のために戦争をする。「みんなの幸せ」のために自由を奪う。「みんなの幸せ」のためにこの星を破壊する。「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に私たちの幸せに繋がっているのだろうか。それは、自分の座っている方の枝を切っていることにはなっていないだろうか。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪は、よく気づく。では、自分の中にある悪には気づいているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか。
世界を変えようと思うならば、まず自分のことから取りかからなければいけないのではないだろうか。

「いや、星の王子様なんて言うから、てっきり。まさかあんなしょぼくれた中年が・・・」
しかもコオロギだなんて、と言ってプッと吹き出す亘を、夏夫はキッとにらみつけた。
「おまえがなぜ女にモテないか、もうひとつわかった」
そう言うと、一瞬にして真剣な顔になった亘に「サービスだぞ」と言ってから続ける。
「それは、おまえが救いがたく心の卑しい人間だからだ。自分はチッポケな人間だと理解しながら、一方で自分より小さな人間を貪欲に探している。ワイドショー好きの主婦のようだ」
ミアも「ヨウダ」と続けた。同感だと言いたいらしい。夏夫はさらに言う。
「しかもなお悪いことに、人間を表面的な見てくれで判断しようとする。おれには、愛の花火がどこで打ち上げられたか、全力で走り回った彼が、星の王子様に見えたけどな」
ミアが「ケドナ」と言う。亘は情けなくて涙が出てきた。

(参考:ワニブックス「世紀末の詩」野島伸司著)

物語の世界では、闇や影と対決する場面が多くある。そして、物語に悪役として登場してくるものたちは、とても魅力的でもある。彼らは、私たちに何を気づかせようとしているのだろう? “悪”とは、単純に悪いことで排除しなければいけないものなのだろうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストーフェレスは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだった。
ル=グウィンの「ゲド戦記」で、ゲドが戦った影もまた。

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

悪や闇や影は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させるきっかけを作ることになったりする。そして、物語の終わりに、その役目を果たしたように世界の中に消えていく。いつでもまた戻ってくるよ、と余韻を残しながら。
悪や闇や影は、私たちを真の光へと導く案内人。
悪や闇や影は、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると、彼らは教えてくれます。光と闇は、別々のものではなくひとつのものであり、それを超える世界があるのだと教えてくれます。彼らの悪の面だけに魅了されたりのみ込まれたりしなければ・・・。

どんなに嫌な人もどんなに大変な事も、次のステージへと自分を引き上げてくれる人や事なのかもしれない。すぐに否定をしないでグッと見つめてみたら、そこに自分自身を見つけるかもしれない。そのことから、自分のまだ知らない可能性を見つけるかもしれない。
そうして見てみると、この世界に悪はないのかもしれないと思うようになる。そのことに気づかないから、悪があらわれるのではないだろうか。

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。

いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分のことだけを考えている人は、人を無意識のうちに傷つけて、結局そのことで自分をも傷つけている。自分のしていること、考えていることに注意深くあれば、私たちは、混乱を抜けて新たな世界へと歩んでいけるのではないだろうか。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない ―あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
そこに、愛がある。

 

 

俺の町、あなたの名前

sakura02クロ: 「木村ってヤツがいてね、こいつが俺の町で好き勝手やってるんだ。」
じっちゃ: 「“俺の町”ってのはやめろ、クロ。悪い癖だ。ここは、誰の町でもねぇ。」

(参考:映画「鉄コン筋クリート」松本大洋原作、マイケル・アリアス監督)

時々、思う。
どうして、私たちは、あれこれ区別したがるのだろう? どうして、これは私のモノだと主張したがるんだろう? と。

そこから生まれるものは、何だろう? それを生み出すものは、何だろう?
分けることなどできないのに。分けられたことなどないのに。どうして、同じであることを受け入れることに、そんなに怯えるのだろう?
分けているのは、私たち。「私のモノ」がある方が、「私であること」をつかみやすい。それがなかったら、「私」は宙ぶらりん・・・。

誰のものでもない町。誰のものでもない国。誰のものでもない地球。誰のものでもない宇宙。誰のものでもない私。みんな同じ空の下、空の中。「私のモノ」など何もなかった。
あらゆるものの中に存在するものが、これまでも今もこれからも、姿を変えて存在しているだけなのだから。
何も持たなくても、「私」はここにいる。

ジューリエット: おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?
お父様とは無関係、自分の名は自分の名ではない、とおっしゃってください。
それがいやなら、お前だけを愛していると、誓ってください。
そしたら、私もキャピュレットの名を捨ててしまいましょう。
ロミオ: このまま聞いていようか、それともすぐに話しかけようか?
ジューリエット: 私の仇はただあなたの名前だけ、
モンテギュー以外の名前をもっておられてもあなたはあなた。
モンテギューというのは何なのか。 手でもなければ足でもない。
腕でも顔でも、いいえ人間の五体のどの部分でもない。
ロミオ、ほかの名前の人になってください!
名前っていったい何なのか? みんなが薔薇と呼んでいるあの花も、
ほかの名で呼ばれてもその甘い薫りには変わりはないはず。
同じようにロミオも、たとえロミオと呼ばれなくとも、
あのなつかしいお人柄に変わりはなかろう、もともとロミオという名前とは、
何の関係もないお人柄なのだから。 おお、ロミオ!
どうかそのお名前を捨ててくださいまし! そしてそのかわりに、
あなたにとってそう大切でもない名前のかわりに、私を、私のすべてを、おとりくださいまし。
ロミオ: おっしゃるとおりにいたしましょう!
私をただ、恋しい人だと呼んでください。 すぐにでも洗礼を受けて名前を変え、
ロミオという名前とは別な人間になりましょう。
ジューリエット: あなたはだれなのです、こうやって夜の暗闇にまぎれ込み、
私の内緒の独言を聞いたあなたは?
ロミオ:私がだれか、どういう名前で答えていいのか、
私にもわからないのです。 あなたは私の名前を仇だとおっしゃる。
だとすれば、それは私にとっても憎い憎い名前。
何かに書いてあれば、消してしまいたいほど憎い名前です。
ジューリエット: あなたのお口から響いてくる言葉を
私はまだそれほど耳にはしておりませんが、お声はちゃんと覚えております。
あなたはロミオ、モンテギュー家のお方。
ロミオ: いや、美しいあなたに答えたい、どちらもおいやなら、どちらでもない、と。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

名前、家系、国、法律、宗教、旗、・・・。どうして、私たちはあれこれとカタチを作りかがるのだろう? もし、それらがなかったら、私たちは仲良くできるだろうか。
今ある国境は、はじめから今の状態ではなかったし、今も変えようとしている人たちがいる。同じ地球の中で、「これは私のモノだ!」と拳を上げている。
違って見えるものではなく、私たちに共通しているものに目を向けてみたら、あらゆる区別をなくして、世界をただそのまままるっと見てみたら、そこに何を見るだろう?
そのとき、「私のモノ」は、何になるだろう・・・。

 

 

どうしてみんなと仲良くしてはいけないんだろう?

stars時々、思う。
どうして、みんなと仲良くしてはいけないんだろう? と。

私たちは、生まれてからすぐに女か男か振り分けられ、その後も国籍とか職業とか何かのグループとか、いろいろな“カタチ”を作って、振り分けるということをしている。
そして、「女はこうあるべきだ」「男はこうあるべきだ」「この国の人はこうだ」「この職業の人はこうだ」などと、その“カタチ”に合わせるように生き方までも方向づけられる。

私は、何かの“カタチ”をもった途端、それ以外の人と仲良くしていたら、それを何か悪いことのような変な目で見るのはどうしてなのだろう? と思っていました。そして、その目が嫌でした。

女は、女としか仲良くしちゃいけないの? 男は、男としか仲良くしちゃいけないの? 女と男が仲良くいるには、何かの“カタチ”がなくちゃいけないの?
年齢が違っちゃいけないの? 学校が違っちゃいけないの? 職業が違っちゃいけないの? 国が違っちゃいけないの? ルーツが違っちゃいけないの? ・・・

どうして、みんなと仲良くしてはいけないのだろう?
仲良くしたら、誰かが怒るの?
もっともっとよくみてみたら、みんな同じである場所があることに気づくのに。
同じだったら、どうして怒ることがあるだろう・・・。

仲間外れの人がいるのではなく、仲間外れを作っている人がいるんだ。
仲間外れだと思っている人も、仲間外れの人を作っているのでは・・・。
私たちは、もっと別の視点に立たなくちゃいけない。
異質なものや違うものを排除しようとすることが本能に近いものだとしても、私たちは、それを変換する力も同時に持っているのだから。

 

 

静かな革命

flower02時々、思う。
食べるもの、着るもの、行く場所、思うこと、考えること、言葉づかい・・・。私たちが行っている日々の選択や決断は、“幸せ”な未来へと繋がっているだろうか? と。

“意識の転換”。この言葉が大きく聞こえるようになってきた。私がそっちの方に意識を向けはじめたというのもあるけれど・・・。
意識が変われば、選択する事柄も変わる。それが多くの人に広がれば、世界が変わっていく。でも、これまでもずっとそうだった。誰か一人が大きな声を上げて、その日からパッと世界が変わったのではなく、その声に次々と同調していった多くの人たちがいたから、世界が変わっていったのではなかっただろうか。
ひとりひとりの意識のあり方が、とても大事なんだ。でも、私たちは、本当に自分の望む世界を選択しているだろうか・・・?

私たちはこの世界で、“幸せ”を手に入れられただろうか。
もしできているなら、どうして“癒し”を求める人がこんなに多いのだろう。苦しんでいる人がこんなにいるってことは、この社会のどこかがおかしいのではないだろうか。
「この生き方だけがすばらしい」「この生き方をすればみんながほめてくれる」「この生き方をしている人が勝ち組だ」。そんな偏った考え方を、何だかんだ言いながらもこのまま続けていく方が、“幸せ”なのだろうか・・・。

“古い時代から新しい時代へ”。この言葉もますます聞こえてくるようになってきた。
今までの世界に何の疑問も抱かず当たり前だと思っている人にとっては、新しい世界になるのかもしれない。だから、終わっていく世界の方を見て、不安や不満を感じているのかもしれない。
今までの世界に疑問を抱き居心地の悪さを感じていた人にとっては、ごく自然で当たり前の世界になっていくのだと思う。だから、蘇りつつある新しい世界の方を見て、湧き上がってくる喜びを感じているのだろう。

“新しい”のだから、“古い”ものはなくなっていく。
でも、新しい時代に必要かどうかを判断するには、まずそれを表に出さなきゃいけない。だから、社会にも個人にも、今、要らないものがどんどん出てきているのではないだろうか。
一見不安に感じるような出来事でも、私たちに大きな気づきを与え、本当に要るものと要らないものを見分けるために、私たちの意識が変わるように起きているのではないだろうか。自然界で起きていることも、「ほらほら!」と私たちの背中を押しているようにも感じる。
そうやって世界を大きな視野で見ることができたら、心はだんだん静かに穏やかになっていく。
争っている場合じゃないってこともわかるし、争いの外に出ることができる。

新しい世界は、支配ではなく、共に生きる世界。
それは“キレイ”に整頓された世界ではなく、境界のあいまいな世界。そんな世界を想像できるだろうか?
それはみんなが“癒し”を求める必要のない世界。そんな世界を考えたことはあるだろうか?

私たちも、宇宙も、生きている。
内側で外側で、絶えず生きて、変化している。
破壊と創造は同じところにあり、生と死を繰り返す。
内なる太陽と外なる太陽は、呼応し合い、共に世界を創っている。
私たちは、自由に選択できる力をもっている。“幸せ”な世界を選択できる力をもっている。

宇宙の決断。
地球の決断。
私たちの決断。
誰かじゃない。
すべては、ひとりの意識からはじまる。
私たち、ひとりひとりの意識のあり方で、この世界は創られている。
革命は、ここからはじまる。