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暗闇の夢

暗闇に 鏡が立てられた

光を 灯せ!
大きくなった人々が 掲げた光
その姿を 見せよ!
そうして 暗闇は 夢を奪われた

光よ 失せろ!
小さき人々が 打ち砕いたその光
その姿は 見えやしない!
そうして 暗闇は 夢の続きをうたった

風よ 吹け!
僕らが呼んだ 太陽風
雨に打たれ 粉々になった 鏡の中
露わになった その姿
そうして 幾つもの空が もっと大きな夢をうたった

暗闇は 闇にあらず
闇は 光を掲げた者の内に巣くう
真の光は 光にあらず
光は 闇を生みし者の目を覆う

暗闇は 僕らの内より 世界を見る
今 僕らの前に 鏡が立てられる

 

 

宇宙の色は色とりどり

flower08子供のころ、ずっと疑問だった。
「どうして、みんな同じにしなくちゃいけないの?」

“ひとつになる”ってどうゆうことだろう。
みんな、同じ思考で、同じ行動をするということだろうか。

「これが正しいことだ。」と、誰かが言ったら、あっちの人もこっちの人も、みんな同じ道を行く、同じ言葉を言う。
「いや、それは正しくない。こっちが正しい。」と、また誰かが言えば、くるっと回転。あっちの人もこっちの人も、みんな同じ道を行く、同じ言葉を言う。
“同じもの”の囲いは、見た目が変わるだけで、結局、同じことの繰り返し。
そして、従わないものを従わせるように支配する。違うものを排除しようとする。
これが、目指している、“ひとつになる”ということだろうか・・・。

一色だけの世界は、つまらない。

“元々ひとつで同じ”だとしたら、どうだろう。
ひとりひとりどんなに違っていても、元はひとつで同じだと。

思考も行動も、選択肢は、想っただけある。どれを選ぶかは、自分で決めればいい。
もし、誰かが自分と違う選択をとしたとしても、それはそれ。無理矢理「こっちだ!」とすることもない。むしろ、“違うこと”から学ぶことは多い。
“同じもの”の囲いは無く、“元々同じである”という帰る場所があるだけだ。
お互いの違いを受け入れ、認めれば、争う必要もなくなる。
これが、目指してることではないだろうか。
“ひとつになる”のではなく、“ひとつである”ということを、ただ認めることなのではないだろうか。

そして、それは、みんなはじめから知っていたことではないだろうか。
ただ、いつ誰がつくったのかわからないルールだけど、それに従わなきゃいけないんだって、それが正しいことなんだって、そう思い込んでいるだけで。
でも、それも必要なことだったのかもしれない。
だって、光を見るためには、闇に持っていかなければいけないから。目覚めるためには、眠らなきゃいけないから。完全を知るためには、不完全である必要があるから。
そして、両方を見ることが出来たとき、大きな気づきが起きるから。
だから、ただ、思い出すだけでいいのではないだろうか。
そうなれば、きっと、もっとやさしくなれる。

色とりどりの世界は、楽しい。

でも、それは、「人と違くなろうとする」ということとは違う。
個性は、つくるものじゃなくて、初めからあるものだから。新たに付け足すのではなく、引き出すものだから。
そして、比べることではない。
それぞれの旅をするために必要なものであるだけなのではなだろうか。

本当の“個”を知ると、本当の“全”を知る。
“個”を無くした“全”ではなく、“全”の中に“個”があり、“個”の中に“全”をみる。

私たちは、宇宙そのもの。
私たちは、離れ離れになったことなど無いし、これからも、離れ離れになることは無い。
ひとつだから、ひとりじゃない。

色とりどりに輝く、一つの生命。
すべてが、美しくて、愛おしい。

みんなの本当の色は、何色だろう?

ムーミン谷のみんなに聞いてみよう。

 

 

内にある光と闇と真の光

fishスフィンクスが尋ねた。 「稲妻よりも不意をつくものはなんだ」
「復讐よ」 とファーベルは言った。
「いちばんはかないことはなんだ」
「不当に所有することよ」
「世界を知るものはだれだ」
「自分自身を知るものよ」
「永遠の秘密は何か」
「愛よ」
「愛はどこにある」
「ゾフィーのところよ」

(参考:岩波文庫「青い花」ノヴァーリス作、青山隆夫訳)

みんなにとっての、世界にとっての、“よいこと”とは、何なのでしょう?
「“よいこと”をしているつもりなのに・・・。」 という経験をしたことはないでしょうか?
「わたしは、あなたのためを思って、こうしたのよ。それなのに・・・。」 それは、本当に相手が望んでいたことだったのでしょうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは・・・?

難攻不落の言葉、“正義”とは?
“正義”を掲げて人を殺すのは、“よいこと” なのでしょうか?
正義を掲げている人を満たすために必要なのは、悪。「みんなの幸せ」のために闘います。
そして、悪とされた側も、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために、自分たちにとっての悪と闘います。
どちらも、私には同じに見える。
自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならないのではないでしょうか。
そして、それによって、闘いは終わらない。
一体、誰のため? 自分だけのためなのでは? 敵がいる方が、都合がいいもの・・・。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる草原に現れた、戦場へ向かう、空飛ぶ軍艦のような機体を見ながら、ソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

・・・どちらも、人を殺しに行くことに変わりはない。

「みんなの幸せ」のために、戦争をする。
「みんなの幸せ」のために、自由を奪う。
「みんなの幸せ」のために、この星を破壊する。
「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に幸せに繋がっているのでしょうか?
自分の座っている方の枝を切っていることになってはいないだろうか・・・。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪・闇は、よく気付く。
では、自分の悪・闇は、気付いているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか?
自分の中には、一体何があるのだろう?

物語の世界では、闇や影などと対決する物語が多くあります。
そして、その闇や影というのは、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると。
そして、光と闇は別々のものではなく、ひとつのものであるとします。

きみの殺したがっている人間は、むろん決してなんのなにがし氏というんじゃない。変装人物にすぎないのにきまっている。ある人間を憎むとすると、そのときわたしたちは、自分自身の中に巣くっている何かを、その人間の像の中で憎んでいるわけだ。自分自身の中にないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの。

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

また、ル=グウィンの「ゲド戦記」で、影との戦いを終えたゲドは、こう言います。

「な、終わったんだ。終わったんだよ。」彼は声をあげて笑った。「傷は癒えたんだ。おれはひとつになった。もう、自由だ。」それから彼はうつむいて両腕に顔をうずめると、子どものように泣きだした。
・・・中略・・・
ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

では、物語に“悪役”として登場してくるものたちは、私たちに何を気づかせようとしているのでしょうか?
“悪”とは、単純に、悪いこと、排除しなければいけないものなのでしょうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

悪役は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させることになったりする。
J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだったように。

善とは、何でしょう? 悪とは、何でしょう?
光とは? 闇とは?
それは、どこにあるのでしょう?
その答えを、誰が知るのでしょう?

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。
光と闇は、全く別々のところに存在しているのでしょうか?

万物の母なる大地は、同時に万物の墓場でもある。
一切を葬る場所は、また一切を育む母胎でもある。
その母胎から生まれた子供ともいうべきさまざまな草木が
母の乳房にすがって乳を吸っている姿を日頃目にするが、
それらの多くの草木が多くの効能をもっており、
なんらかの効能をもたぬものは一つもなく、しかも効能は千差万別だ。
草や木や石の性質の中に含まれている
霊妙かつ強力な薬効は全く驚嘆に値する。
およそ地上にあるもので、いかなる悪しきものといえども、
地上で生きているものに対しなんらかの良き作用を及ぼさないものはない。
また、いかに良きものといえども正しい用途から逸脱すれば、
本来の性にもとり、やがては腐敗の道をたどってゆく。
いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
きっと、そこに愛がある。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない――あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

“汝自身を知れ”