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暗闇

暗闇に 鏡が立てられた

光を 灯せ!
大きくなった人々が 掲げた光
その姿を 見せよ!
そうして 暗闇は 夢を奪われた

光よ 失せろ!
小さき人々が 打ち砕いたその光
その姿は 見えやしない!
そうして 暗闇は 夢の続きをうたった

風よ 吹け!
僕らが呼んだ 太陽風
雨に打たれ 粉々になった 鏡の中
露わになった その姿
そうして 幾つもの空が もっと大きな夢をうたった

暗闇は 闇にあらず
闇は 光を掲げた者の内に巣くう
真の光は 光にあらず
光は 闇を生みし者の目を覆う

暗闇は 僕らの内より 世界を見る

今 僕らの前に 鏡が立てられる

 

 

内にある光と闇と真の光

時々、思う。
みんなにとっての、世界にとっての、“善いこと”とは、何だろう? と。

「“善いこと”をしているつもりなのに・・・」という経験をしたことはないだろうか?
「わたしは、あなたのためを思ってこうしたのよ。それなのに・・・」。それは、本当に相手が望んでいたことだったのだろうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは? それとも、善い人って言われたかったから?

難攻不落の言葉、“正義”とは? “正義”を掲げて人を殺すのは、“善いこと”だろうか?
その人を満たすために必要なのは、自分とは違う考えを持つ者。私が正しいのだから、それを否定する者はみな悪なのだと、それを排除することが「みんなの幸せ」なんだと正義を掲げて闘う。そして、悪だとされた側も、そう言うお前たちこそ悪なのだと、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために闘う。
どちらも同じに見えないだろうか。

自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならない。自分が善い人でいるために不幸な人を探し、不幸な人がいなくならないように。
一体、誰のためだろう? 自分を満たすためだけなのでは? 敵がいる方が都合がいいもの。世界が混乱していた方が、不幸な人がいた方が都合がいいもの・・・と。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる明るい野原に、戦場へ向かう空飛ぶ軍艦のような機体があらわれ、それを見ながらソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

「みんなの幸せ」のために戦争をする。「みんなの幸せ」のために自由を奪う。「みんなの幸せ」のためにこの星を破壊する。「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に私たちの幸せに繋がっているのだろうか。それは、自分の座っている方の枝を切っていることにはなっていないだろうか。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪は、よく気づく。では、自分の中にある悪には気づいているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか。
世界を変えようと思うならば、まず自分のことから取りかからなければいけないのではないだろうか。

「いや、星の王子様なんて言うから、てっきり。まさかあんなしょぼくれた中年が・・・」
しかもコオロギだなんて、と言ってプッと吹き出す亘を、夏夫はキッとにらみつけた。
「おまえがなぜ女にモテないか、もうひとつわかった」
そう言うと、一瞬にして真剣な顔になった亘に「サービスだぞ」と言ってから続ける。
「それは、おまえが救いがたく心の卑しい人間だからだ。自分はチッポケな人間だと理解しながら、一方で自分より小さな人間を貪欲に探している。ワイドショー好きの主婦のようだ」
ミアも「ヨウダ」と続けた。同感だと言いたいらしい。夏夫はさらに言う。
「しかもなお悪いことに、人間を表面的な見てくれで判断しようとする。おれには、愛の花火がどこで打ち上げられたか、全力で走り回った彼が、星の王子様に見えたけどな」
ミアが「ケドナ」と言う。亘は情けなくて涙が出てきた。

(参考:ワニブックス「世紀末の詩」野島伸司著)

物語の世界では、闇や影と対決する場面が多くある。そして、物語に悪役として登場してくるものたちは、とても魅力的でもある。彼らは、私たちに何を気づかせようとしているのだろう? “悪”とは、単純に悪いことで排除しなければいけないものなのだろうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストーフェレスは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだった。
ル=グウィンの「ゲド戦記」で、ゲドが戦った影もまた。

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

悪や闇や影は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させるきっかけを作ることになったりする。そして、物語の終わりに、その役目を果たしたように世界の中に消えていく。いつでもまた戻ってくるよ、と余韻を残しながら。
悪や闇や影は、私たちを真の光へと導く案内人。
悪や闇や影は、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると、彼らは教えてくれます。光と闇は、別々のものではなくひとつのものであり、それを超える世界があるのだと教えてくれます。彼らの悪の面だけに魅了されたりのみ込まれたりしなければ・・・。

どんなに嫌な人もどんなに大変な事も、次のステージへと自分を引き上げてくれる人や事なのかもしれない。すぐに否定をしないでグッと見つめてみたら、そこに自分自身を見つけるかもしれない。そのことから、自分のまだ知らない可能性を見つけるかもしれない。
そうして見てみると、この世界に悪はないのかもしれないと思うようになる。そのことに気づかないから、悪があらわれるのではないだろうか。

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。

いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分のことだけを考えている人は、人を無意識のうちに傷つけて、結局そのことで自分をも傷つけている。自分のしていること、考えていることに注意深くあれば、私たちは、混乱を抜けて新たな世界へと歩んでいけるのではないだろうか。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない ―あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
そこに、愛がある。

 

 

同じ土俵には上がらない、成長すること

時々、思う。
どうして、大人になってもいじめをするんだろう? と。

子供の頃、少しの間いじめを受けていた時のことを思い出しました。
私がいじめられる前に、「もしかしたら、いじめられるかもよ」と、伝えてきた子がいました。その時点で、どうして止めてくれなかったのだろう、私はどうしたらよかったのだろうと今思うけれど、その後その子の言葉通りいじめというものが始まっていきました。
でも、私をいじめてくるグループの子たち以外は、変わらずに接してくれました。“変わらずに”というのは、可哀想な子を守るというようなことではなく、傍観者というのでもなく、ただ普通に接してくれていました。目立つようないじめでもなかったので、気づかなかった子もいたかもしません。でも、気づいていた子はいて、あの時もしかしたら私の知らないところで何かしてくれていたのかもしれない、と思うこともあります。
私は私で「こんなことをして、なんになるんだろう?」と思っていたし、そもそもいじめてくるグループの子たちと話したこともなかったので、ショックではありましたが、それに抵抗することも沈み込むこともせず、ただそのまま流す、ということをしていました。
ある日、突然はじめて話しかけられた子からのたった一つの質問に一言答えると、次の日からいじめはパタリと終わりました。それによって、私が何でいじめられていたのかがわかったのですが、人間って本当に不思議だな、と思ったのは、卒業が近づいてきたころ、そのいじめをしてきたグループの子たちが話しかけてくるようになりました。いじめについて触れることもなく、何事もなかったかのようでした。だから私も、何事もなかったように接しました。

私はこの経験で、人間は、心のあり方でまったく変わってしまうものなんだ、ということを知りました。そして、“集団”の怖さも知りました。支配するものと、支配されるものがいる“集団”です。それは、リーダーの一言で白も黒に、黒も白に変わってしまう。力によって個々の考えや想いが抑えつけられる。人数が多くなると、ますます固く、解くことが難しくなっていく。
度々、いじめについてのニュースを耳にするけれど、私の場合、私の心の中全部がいじめというものに染まらなかったこと、そして、周りの人たちもいじめに染まらなかったことがよかったのだと思います。

問題は、心のあり方。
いじめをする子にも、何かしらの心の傷や満たされない何かがあるのではないだろうか。自分の心をコントロール出来ず、そのうまくいかないことを自分以外の人に向かう“いじめ”というカタチをとってしまうのではないだろうか。人に向かうのでなく、自傷行為に向かう子もまた。「ねえ、どうして私を愛してくれないの?」と。
いじめられた子のケアだけでなく、いじめをした子のケアも同じくらい大事なことなのではないだろうか。その子が、どうしてそういうことをするにいたったのか。それはきっと、その子だけの問題ではなく、家庭の、そして大人たちが作るこの社会にも、その問題の根があるのではないだろうか。

見方を変えると、この頃の子供たちは、“生きること”を必死で探しているのかもしれない。
自分のいる世界がどんどん広がっていくと、自分と他者を認識して、自分と他者との間に線を引くようになる。社会というものがどんどん迫ってくるように感じ、責任がどっと押しかかり、経験が一気に増えることで、期待と不安が駆けめぐる。
いろんなことを信じる一方で、いろんなことを否定する。
強すぎる生ゆえに、死に憧れる。眩しすぎるがゆえに、汚したくなる。
自分がここに存在しているという実感が欲しくて、自分を大きく見せたくて、人を自分を傷つける。
一緒は嫌だけど、一緒じゃなきゃ嫌なんだ。
子供と大人の狭間、そのアンバランスなグロテスクさが美しい。生きることへ破滅的に真っ直ぐ向かっていく、その痛々しいほどむき出しになっている、その眩しすぎる危うさが美しい。
でも、それはこの時期だけのこと。成長して、別の美しさを手にします。

子供の犯罪が、ショッキングな出来事としてニュースで取り上げられている。ショックではあるけれど、私は、大人が犯罪を犯す方がゾッとします。大人なのに、どうして・・・? と。
子供たちは、いろんな経験をして学んでいる。大人たちは、何をしているのだろう? 大人なのに、どうして奪い合い殺し合うのだろうか? 一体、いつまで・・・?

当たり前のことだけど、いじめをなくそうと思うのなら、まず自分がいじめをしないこと、いじめをしている人に同調しないこと。ママ友の間で、仕事場で、あるいは家庭の中で、いじめは起きていないだろうか?
自分は、他者のことをどう見ているだろう。自分自身のことをどう見ているだろう。自分の内にある悪と向き合ったことがあるだろうか。人を悪と思う心が悪なのでは。その心が、外に悪を生み出しているのでは・・・?
私たちはまず、自分の心の中を見てみなければいけない。差別は、どこから起きるのかと。

他者のすることにイライラしたり、自分はどうせといつまでもいじけていても、何も良くならない。
子供たちは、大人たちを見ている。大人たちが互いの存在を認め合いながらその中で生きていれば、それを見ている子供たちは、そこから学べるはず。いじめたい気持ちが湧き上がってきても、大人たちの生き方を見て、別の選択があることに気づくことができるはず。
子供たちの世界をどうにかしようとするのではなく、大人たちの世界を見つめ直し、考え直すことが先なのではないだろうか。

満たされないこと、思い通りにならないことは、誰にでもあること。でも、そこにいつまでも不満を持ち続けるのではなく、それが私たちを育てているのだと、気づきを与えてくれているのだと思うようになれば、不満のエネルギーはクルッと反転して、私たちを成長させてくれるエネルギーへと変わり、エゴの外に出ることができる。
反抗期はもう終わらせて、愛について考えてみませんか?