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子供たちに読み聞かせをする方へ

flower12「読み聞かせは良いよ。」 と、よく耳にしますが、それを行なう人は、ただ良いと言われているからやるのではなく、是非、“物語”とは何なのか、ということをわかって行なっていただきたいと想っています。そうすれば、もっともっとすてきな事になるんじゃないでしょうか。「力をくれた物語の世界(1)」「力をくれた物語の世界(2)」の記事もご覧いただけたら嬉しいです。

「・・・教師から子どもに向かって働く作用は、頭で考え出したり、概念で表したりできるものではありません。そこには、生命の計り知れない作用が働くのです。教育者から子どもに向かって、おそろしく多くの作用が流れていきます。教師はそのことを意識していなければなりません。特にメルヘンや物語、伝説を子どもに物語るときには、そのことを心得ていなければなりません。私たちの物質主義の時代の傾向として、教師が自分で語っていることを幼稚に感じているということがしょっちゅう見受けられます。自分で信じていないことを、子どもに語っているのです。
・・・中略・・・
神話やメルヘンは、高次の真理がイメージによって表現されたものだからです。私たちは神話、伝説、メルヘンをふたたび魂を込めて扱えるようになります。そのことによって、私たちが子どもに向かって語るときの言葉は、その内容についての自らの信仰に貫かれます。その言葉が子どもに向かって流れるのです。それは教育者と子どもの関係の中に、真実をもたらします。
しかし、教育者と子どもの間にはえてして、偽りがはびこっています。子どもは愚かで、自分は賢い、子どもはメルヘンを信じる、だからメルヘンを話してあげなければならない、と教師が思ったとたん、偽りがはびこりはじめます。」

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <訳者あとがき>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

エンデは、「鏡のなかの鏡―迷宮―」で、こう書いていました。

「正しい方法を心得ている者が語って聞かせるとき、童話は全部ほんとうだ。」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <25>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

サン=テグジュペリは、「星の王子さま」で、こう書いていました。

ぼくは、この話を、おとぎ話みたいに、はじめたかったのです。そして、こんなふうに話したかったのです。「むかし、むかし、ひとりの王子さまがおりました。その王子さまは、じぶんより、ほんのちょっと大きい星を家にしていました。そしてお友だちをひとり、ほしがっていらっしゃいました・・・」
こうすると、ものそのもの、ことそのことをたいせつにする人には、話がもっともっとほんとうらしくなったでしょうに。

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

そして、ル=グウィンは、録音した声ではなく、生の生きた声で語ることについてこう言います。

ぐるっと輪になった子どもたちの顔を、熱心さのあまり輝いている彼らの顔を見てほしい。だから、各地を回り、本屋で自作の朗読をする作家と、それに耳を傾ける聞き手の集団は、輪の中心に語り手が位置する古代の儀礼を再演するのである。生きた反応があるからその声は語ることができた。語り手を聞き手、それぞれが相手の期待を満足させるのだ。言葉を語る生きた舌、そしてそれを聞きとる生きた耳が、私たちを束ね、結びつけて、内なる孤独をもたらす沈黙のなかでわたしたちが切望する交わりをつくりだすのである。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <語ることは耳を傾けること>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

物語の世界は、目に見えない、耳に聞こえない、手で触れられない世界です。でも、それが全く嘘のことや現実逃避の産物ではありません。現実をしっかり見ているからこそ書けるのです。天文学や気象学、騎士道にサバイバル術を学ぶことだってできます。そして、私たちの心のことも。世界の秘密についても。
別の次元で、私たちは、その世界を見ることができるし、聞くことができるし、触れることができます。物語の世界は、確かに“ここ”にあります。

そして、それは子供時代だけのものではありません。“現実”とされているこの世界に、ふと疑問を持った、大人だと言われるようになった人たちが物語を読んだとき、きっとみつけるはずです。「なんだ、ずっとここにあったんじゃないか。」 と。
物語の世界は、大人も子供も一緒に遊べる、時間も重力も超越した自由な遊び場です。

物語を読むことは(他の芸術もまた)、この世界をいろんな角度から見せてくれ、想像力を養い、内と外を繋げることだと私は想っています。そして、私たちを故郷へと導いてくれるものであると。
その使い方を間違わなければ・・・・・。
物語の世界は、“現実”ではありません。物語ることによって“本当の現実”を見せてくれるものです。
木を見上げても、そこにチェシャ猫はいません。お気おつけください。

 

 

大人と子供、大人が言う「知っている」をやめたら何を知るだろう?

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自然(感性)は至ることろで合一し、知性は至るところで区分するのです。そしてさらに理性が再び合一するのです。したがって人間は哲学をしはじめる以前のほうが、その研究をまだ完了していない哲学者よりも真理に近いのです。 (第18信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

私たちは、この世界のことや生きることについて、誰かがこうだと言ったことを、ただそのまま信じているだけではないでしょうか。
その点で、子供たちは、あることでは、大人たちよりも多くのことを知っていると言えるのではないでしょうか。

子供は、大人のことをよく見ています。
自分が子供の頃も、そうだったのではないでしょうか。

誰かがこうだと言ったことを信じて疑わない大人が、子供たちにそのまま、「世の中とは、生きるとはこうだ。」と教えると、どうなってしまうでしょう?
子供たちもまた、その言葉を信じて、大人と同じことをします。大人が(親が)間違っているなんて、信じたくありません。
私は、大人は何でも知っているのだと思っていたのに、実際はそうじゃないのだと知ったとき、とてもショックを受けました。
私も“大人”と呼ばれる年齢ですが、いろんな大人と出会うようになって、「大人ぶってる大人ほど、うそくさい」と感じ、そうゆう大人にはなりたくないと想うようになりました。
「よく子供っぽいって言われるんだよ。」と、よくわかりもせず、ニヤニヤ大きな声で言ってるような大人も嫌いです。
「私は、何でも知っている。」 そんな大人ほど、知らないことが多かったのです。
そして、そういう大人は、「子供は何も知らない、何もできない」とも想っているのです。

大人が言う「知っている」は、何を知っているのでしょうか。
「世の中とは、こうゆうものなんだ。」と言われていることを覚えることでしょうか。
何かをすることが、「自分がそうしたいから」ではなく、「世間に認められるには」という考え方になることでしょうか。

変わるべきなのは、大人の方なのではないでしょうか。

自分の世代と次の世代が、全く同じ考え方であることはありません。
正しいとされていたことが、正しくなくなることは、多々あることではないでしょうか。
それなのに、変わらず「こうあるべきだ」を押しつけてしまうのは、窮屈で不自然に感じます。
その正しいさは、自分で考えたことでしょうか? それとも、誰かに言われたことでしょうか?

・・・正しいとは、何でしょう?

子供が、生き生きと成長できるようにするには、何をしたらいいのでしょうか。
「子供を守る!」 とは、何を守ることなのでしょうか?
守ると言いながら、抑えつけてはいないでしょうか?
自分が子供の頃、大人にどうしてほしかったでしょう?

本当の教育とは、“与えることではなく、引き出すことなのだ” と、聞いたことがあります。
「こうしなければいけない。こうゆう生き方が正しい。」と、囲い、縛りつけるのではなく、「自分ができることは何なのか。本当の望みは何なのか。」と、内側から解放してあげる方が、ずっと自然なことで、それができる大人が、ステキな大人だと想います。
私たちは、どんな経験をしたいのか、それを達成するために、どんなことが必要なのか、生まれてくる前に、全部自分で決めてきたのではないでしょうか。
そうだとしたら、自分と他人を比べて、不平不満をたらたら言うのは違うし、目的はみんな違うのだから、自分以外の人の生き方に対して批判をしたり、ましてコントロールするなんてことは出来ないはずです。
“個性”を受け入れることが出来れば、もっと楽しくなるのではないでしょうか。
そして、それは子供だけではなく、自分の考えや経験も、もっと広がることになるのではないでしょうか。

いろいろな物語(主に児童文学やファンタジーに分類されているもの)を読んでいると、そこには、“大人”と“子供”の対比がよく書かれていることに気づきます。
そして、2種類の“大人”が登場してきます。
ひとつは、“子供を切り離した大人” です。「大人とは、こうだ。子供とは、こうだ。」と決めつけ、大人の方が優位であるとしているような人です。
そして、もうひとつの大人は、“統合した大人”です。 その大人は、子供のことを「何も知らない、何もできない人」だとみることは決してありません。常に、同等に接します。そして、あることでは、それ以上に、“子供であること”をとても尊敬しています。

「大人になる」とは、この“統合した大人”になること、または、“それを超えた存在になる”ことなのではないでしょうか。

ル=グインは、“成熟した大人”という言葉で、こう言いました。

成熟とは伸び越えて別物になることではなく、成長することだとわたくしは思います。大人とは<死んでしまった子ども>ではなく、<生きのびえた子ども>なのです。成熟した大人のもつすぐれた能力はすべて子どもに内在するとわたくしは信じていますし、若いうちにそれを大いに励まし伸ばしてやれば、大人になってから正しく賢明にそれを働かせることができるようになる、逆に子どもの頃抑圧し芽をつみとってしまえば、大人になってからの人格も矮小なゆがんだものになってしまうと思います。

・・・ 自らが大人であることを弁明する必要がないほど成熟した大人 ・・・

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

わざわざ自分を大人だと主張する人は、何かに怯えているように見えます。まるで、大事なものを失くしたことを必死で隠しているように・・・。

また、ミヒャエル・エンデはこう言いました。

わたしがかつて子どもだった、その子どもは今日でもまだわたしのなかに生きています。その子どもからわたしを切り離す、つまり大人になるという、そんな溝はありません。根本においては、今のわたしも当時のわたしと同じ気がします。ここで、わたしの心の目には、困った顔つきで額にしわをよせた心理学者がこうつぶやくのが見えます。つまりこの男は本当に大人になることがなかったんだなと。
それは現代では重大な欠陥とされています。
でも、かまいません。認めましょう。わたしはおそらく本当の大人にはついにならなかったのだと思います。これまでの生涯を通じて、今日、本当の大人と称されるものになることを、わたしは拒みつづけてきました。つまり、魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、いわゆる“事実”の世界に存在する、あの不具の人間たちです。そして、このとき、わたしはあるフランスの詩人が言った次の言葉を思い出します。まったく子どもでなくなったときには、わたしたちはもう死んでいる。
まだ凡庸になりきらず、創造性が少しでも残る人間なら、だれのなかにも子どもは生きていると、わたしは思います。偉大な哲学者、思想家たちは、太古からの子どもの問いを新しく立てたにほかならないのです。わたしはどこから来たのか? わたしはなぜこの世にいるのか? わたしはどこへ行くのか? 生きる意義とは何なのか? 偉大な詩人や芸術家や音楽家の作品は、かれらのなかにひそむ、永遠の神聖な子どものあそびから生まれたものだと思います。九歳でも九十歳でも、外的な年齢とは無関係に、わたしたちのなかに生きる子ども、いつまでも驚くことができ、問い、感激できるこのわたしたちのなかの子ども。あまりに傷つきやすく、無防備で、苦しみ、なぐさめを求め、のぞみをすてないこのわたしのなかの子ども。それは人生の最後の日まで、わたしたちの未来を意味するのです。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <永遠に幼きものについて>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

 

自分自身をじっくり観察したとき、そこに、“子供”と“大人”の境界はあるでしょうか?
誰が、それを決めているのでしょう?

作り上げられた大人であることをやめたとき、あなたは、一体何になるでしょう?

私たちは、いろいろなレベル(次元)で存在していて、すっかり忘れてしまって、「無知」という状態の自分もいるし、「全て知っている」という状態の自分もいるようです。
「自分には、まだまだ知らない事がたくさんある。」と認めると、スペースができて、視野が広がります。すると、凝り固まった思考は柔軟になり、いろんな考え方があることを知ることができ、経験も知識も増えていきます。
「答えはいつも自分の中にある。」と認めると、自分自身の深く高いところにアクセスすることができます。すると、外側で起きることに反応するのではなく、自分の内側に注意を向けるようになります。全ては、内側で起きていることが外側に投影されているのだと、自分が想ったことが、「やっぱり、そうだ。」と、確認するようなことが起きるのだということを知るようになります。
自分が舵を握っているのだと、気づくのです。従わなきゃいけないものは、誰かが作ったルールではないということに気づきます。

そして、教えられなくても、はじめから「知っていた」ということを知ります。
私たちは、その「知っていた」ということを知るために、「知らない」という状態になるのかもしれません。「知らない」から、たくさんの経験ができ、それによって成長ができます。

教えられた「知っている」を、手放してみませんか?
そこで、何を手に入れるでしょう?

「たいへんだ! 隠者がおれたちを追いかけて、海の上を陸地のように走っている。」乗客たちはそれを聞くと、起きあがり、みんな船尾に走り寄った。隠者たちが手をつなぎあって走っているのを、みんなが見た。両端の者が手をふって、とまれと合図をしている。三人がみんな陸地のように、海の上を走っているが、足は動かさない。
船をとめる間もないうちに、隠者たちは船とならんで、ふなべりのすぐ下に近づいた。そして、顔を上にむけると、声をそろえていいだした。
「忘れてしまいました。あなたが教えてくれたことを忘れてしまったんです。くりかえしているうちは、おぼえていたのに、一時間ほどくりかえすのをやめたら、言葉が一つぬけ、忘れてしまって、全部めちゃくちゃになってしまったんです。なに一つおぼえていません。もう一度教えてください。」
高僧は十字を切り、隠者たちのほうに身をかがめて、いった。
「あなたたちの祈りこそ、神様までとどいているのです、隠者のみなさん。わたしはあなたたちを教えるような者ではありません。われわれ罪深い者のためにお祈りをしてください!」
そういうと、高僧は、隠者たちにむかって深々とおじぎをした。すると、隠者たちは立ちどまり、くるりとうしろをむき、海を通って帰っていった。そして、隠者たちが去っていったほうから、朝まで光が見えていた。

(参考:福音館書店「トルストイの民話」レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ作、藤沼貴訳)