子供と大人と老人、新世界を創るのは老人子ども

人間は、年をとればとるほど、もしも魂を正しく進化させるなら、ますます若くなっていきます。しかしこのことは、人間が自分の中に霊的な衝動を受容するときにのみ、未来において可能になるのです。霊的な衝動を受容するなら、髪が白くなり、しわがふえ、そしていろんな疾患に悩まされるとしても、その人は、ますます若くなっていくでしょう。なぜなら、死んだあとまでの担い続けていく衝動を、魂の中に受け取っているのですから。

(参考:春秋社「シュタイナー 悪について <ミカエルと龍の戦い>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

時々、思う。
どうして年をとるほど臆病になって、さらに年をとっていくとどんどん頑固になっていったりするのだろう? と。

子供は、いつも今に全力投球。考えるよりも先に走り出す。
転ぶかどうかなんて、結果がどうなるのかどうかなんて考えない。昨日のこと、明日のことはどこへやら? 喧嘩をしても、すぐに仲直り。
目の前には、輝く未来がどこまでも広がっている。

大人になるにつれて、考えはじめる。思考やエゴがむくむくと立ち上がって、それが自分だと、自分の望んでいることだと思うようになる。
自分は、どう見られているのだろう? あの人は、どう思っているのだろう? 明日のこと、昨日のことで頭を悩ませる。宙ぶらりんは怖いから、カタチを求めてしがみつく。まだ起きていないことを心配して、まだ辿り着かない結果に期待をする。喧嘩をしたら、なかなか仲直りができなくなる。
あんなに眩しく広がっていた未来は、ゆがんでかすんで、過去がどんどん増えていく。
でも、何かに集中しているときや情熱を注いでいるときは、それらがどこかにいってしまう。たとえ疲れることであっても、今にいる充実感と気持ちの良さを感じることができる。あの子供の頃のように。

老人になっていくと、自分が作ってきたものや演じてきたものが次々と消えていく。
それらは永遠ではなかった。それらが消えても私はここにいる。それらは本当の自分ではなかった、と気づくようになる。たくさんの連なる過去を振り返り、迫り来る未来のその向こうに思いをはせる。
でも、「昔、私はこういう人だった。これをあれを持っていた。あー、昔は良かったのー」と過去をうらやんだり、「この私が間違うなんてことはない!」とますます頑固に自分の失敗を認めようとしなくなったり、「もう、私なんてどうでもいいんだ」とすべてに背を向けてしまう人もいる。
身体は老いて、頭の回転も理想どおりには動かない。でも、これまでの経験は知恵となり、もっと深くて高い視点で世界を見ることができるようになった老人は、若者たちの未来への道しるべとなることができるのに。あの尊われていた老人は、どこにいったのだろう・・・?

若いということが素晴らしくて、年をとることが何か悪いことだったり劣っていることのように思われているのは、どうしてなのだろう?
できなくなることは増えていき、容姿も変わっていくけれど、そうだからと言って、もうこの世界には必要ないとでも? そんなことはないはず。若者の美しさとはまた別の、真から輝く美しさを手にできるのに、どうしてそれを得ようとしないのだろう・・・。

宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」に出てくる、保育園と老人ホームが隣り合っているような環境がもっと増えていったらおもしろいだろうな、と思う。
老人と子供、そして、いろんな世代の人たちがそこで交流できるようであれば、まだエゴが活発な老人や生きることに背をむけた老人は、子供たちから多くのことを学ぶかもしれない。子供たちは、賢者となった老人から多くのことを学ぶかもしれない。そして、そこにたずさわる大人たちは、生命の大きな輪を見ることができるかもしれない、と思うから。

新しい世界を創り、その世界を生きるのは、子供と本当の老人を合わせもつような人なのではないか、と思う。
思考やエゴが弱く、それらにしがみつかないということだけでなく、言葉や肉体にとらわれないところや、男女の区別をあまり感じない、そんな人。物事を高く深く見ることができる人。そういう人たちが、この世界をもっと深くゆったりと呼吸できる世界にしていくのではないだろうか、と思う。
そんな人たちの中で、私も生きてみたい。

山と思っていたのは、じつは、こちらをむいた人間の首で顔をわずかにうつむけている。頭部は異常に長く、そこから雪のように白い長髪が両脇にたれさがっている。顔そのものはしかし、子どものように思えた。男女の区別はつかなかったが。この顔からただよう静寂はとても深かったので、ながめている者は、睫毛をうごかしてその静寂を破ることすらはばかられるほどだった。そうやって彼がじっとしていると、声はまったく聞こえないのに、ついに言葉が聞きとれたのである。
「私は、老人・子ども」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <22>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

圧倒的な静寂と輝きをもつ、老人子ども。
そこに、ものすごいパワーを感じます。