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自分のエネルギーに注意しよう

最大の高慢あるいは最大の自卑は自己に関する最大の無知である。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

我々が特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの、そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。
これによってただ愛・憎しみなどが破壊されるばかりでなく、さらにまたそうした感情から生ずるのを常とする衝動ないし欲望も過度になりえないことになろう。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

時々、思う。
どうして、イライラしている人は、そのイライラが関係を壊していることに気づかないのだろう? と。

イライラしている人が目の前にいたら、どんな感じがするだろう。率直に嫌だなと感じる。あるいは一緒になってイライラして、ギャーギャー騒ぐだろうか。そして、周りの人たちも巻き込んで、ヒリヒリと嫌な感じをその空間全体に広げていくだろうか。
その場を何とか乗り越えたとしても、別の場所で別の人に、「この間、こんな人がいたのよ」と、イライラを広めるだろうか。それを聞いた人は、どんな感じになるだろう。一緒になって、あるいはまた別の人に・・・。イライラは、どこまで広がっていくだろう。今は、SNSってやつがあるわけで。誰でも自分の考えを発信でいるのは素敵なことだけど、それを使って自分の小さなエゴを満たすためだけに、世界中にイライラを広めて楽しいだろうか?
そんな世界で、生きたいと思う?

嫌だと思ったら、自分のところで断ち切ろう。イライラをぶつけられても、深呼吸。右から左に受け流す。ユーモアの一つでももっていたら最高だ。その人のイライラを笑いに変えられるかもしれない。笑いのエネルギーは、思い込みと幻想を吹き飛ばしてしまうから。
もちろん、あなたが穏やかでいるだけで大丈夫。それが案外大変なのだから。あなたのその落ち着きっぷりを見たら、その人のイライラも静まって、大問題だと思っていたことも、実は大したことではなかったと思えるようになるかもしれない。沈黙のエネルギーは、その人の真の姿を露わにしてしまうから。

私たちは、もっと穏やかに賢くなる必要がある。
そして、ストレス社会を作っているは、誰かじゃなくて、私たち一人一人なのだと自覚すること。それが出来れば、まず自分のイライラをコントロールしようと努めるようになる。そして、その姿を見て、見習おうとする人が増えていくかもしれない。そうすれば、イライラする人も少なくなって、イライラしている人にイライラする人も少なくなって、イライラしている人の暴言や暴力によって傷つく人も少なくなる。
世界は、静かな美しさを取り戻す。私は、そんな世界を生きたい。

樹木そのものがわたしたちにとり、結局はもう何も意味しないとき、環境汚染や自然破壊に対して社会批判的な論を述べても、それが何の役にたつというのでしょう? しかし、その詩のなかで樹木の美しさ、この謎を秘めた存在への兄弟心を体感させてくれる詩人は時代遅れとされ、ほとんど滑稽な過去の遺物とみなされるのに、環境破壊に対して怒りを込めたパンフレットを書く者は、森がかれ自身にとっては現代生活において生物学や化学的な基礎以上の意味を持たなくても、進歩的、いや勇気があるとさえ言われるのです。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <永遠に幼きものについて>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

今の世界に不満を感じたら、すべてを投げ出したり、反抗的になるのではなく、自分が本当に望む世界のままを生きよう。「自分の望む世界はこうなんだ」って、そこで生きる自分のままでこの世界を生きてみる。そうすれば、少しずつかもしれないけれど、世界は望む方へと回り出す。

みんながあまり注目しない現象がある。それは内なる世界の荒廃だ。これはおなじように脅威だし、おなじように危険だ。そして、この内なる世界が荒れはてないように、ちいさな内なる樹木をためしに植えてみてはいかがだろう。たとえば、いい詩を書いてみよう。これは内なる木を植えることだ。
木を植えるのはリンゴを収穫するためだけではない。いや、木はそれだけで美しい。なにかに役立つというだけでなく、樹木がただ樹木であることがたいせつなのだ。
それがおおぜいの作家たち、いやおおぜいではなくとも、何人かの作家や芸術家がこころみていることだ。つまり、ただそこにあり、人類みんなの財産になりうるなにかを創造することである。それがそこにあることが、それだけでよいことだから。

(参考:岩波書店「だれでもない庭 エンデが遺した物語集 <内なる世界が荒れはてないために>」ミヒャエル・エンデ著、ロマン・ホッケ編、田村都志夫訳)

あなたが、ここに存在しているだけで美しい。

賑やかな場所で、静かにひとり窓辺に座っている人がいる。彼女(彼)は、何もしていないように見えて、本当はその場を一番支配している。支配という言葉はあまりよくないかもしれなから、一番世界に貢献していると言った方がいいかもしれない。
大衆の波に乗らない人。その人は、空気が読めないわけでも、仲間に入りたくても入れないというわけでもなくて、もっと大きな世界の中で生きている。だから、みんなの中に入らなくても寂しくないし、焦ったりなんかもしていない。でも、その人は繊細だから、気をつかってみんなの中にいるかもしれない。それでも、その人は気づかないうちにみんなを導いていく。だって、その人の力はとても強いから。大きな声を上げなくても、派手なパフォーマンスをしなくても、その力は圧倒的だから。

自分の中に、もっとも美しくて強いものがあるのなら、それを見つけたいとは思わない?

自分の発するエネルギーに注意しよう。そのエネルギーが、この世界を創っているのだから。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

(参考:小学館「永遠の詩02 茨木のり子 <自分の感受性くらい>」高橋順子選・鑑賞解説)

 

 

知れば知るほどに

知れば知るほど 人は 謙虚になっていく
偉ぶっている人は 自分の無知さえ 知らないがため
自分の非を認めない人は 自分の無知を 認めたくないがため
知ることを恐れる人は 自分が信じてきたものを 否定したくないがため
知ることを求める人は みんなが信じているものは違うのではないかと 感じるがため

知れば知るほど 絶望していき
知れば知るほど 可能性が見え
知れば知るほど 穏やかになっていく

内面が静かな人は ちゃんと向き合えた人
自分の無理を知る人は すでに 多くの知を手に入れている

知れば知るほど 無知を知る
知らないが故に この世界で遊ぶことができる

 

 

私たちはまだ知らない

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

最初の人は 誰だったのか
その人は 何を想ったのか

暗闇に灯る 黄金の砂粒
鯨がうたう 森の中
きみの瞳が 世界を紡ぐ

最初の人は 僕らだった
僕らが それを 望んだから

瞳に明かされる 空のうた
きみが 目を閉じ
世界が 目を覚ます

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

否 わたしは 知っている
否 わたしは 知りたい

わたしと私たちときみと僕らの 透明な世界の物語

 

 

“私”の崩壊と開放

“私” を深く深く探っていくと
“私” がバラバラになって 消えてしまうのではないかという
予感の壁に当たる
“私” がなくなるという感覚
それは 不安と恐怖
その先へ進むのをためらい 引き返したくなる
消えてしまうなんて 嫌だ!
“私”は “私”でありたい!
でも あの先には 何があったのだろう・・・?

“私” に深く深く潜っていくと
“私” がフッと消えて どこにも存在しなくなるのではないかという
予感のベールに触れる
“私” がなくなってしまうという感覚
それは 歓喜と郷愁
その先へ手を伸ばし 一気に飛び込みたくなる
“私”は “私”であるために “私”を作ってきたんだ!
“私”は “私”を知らないように “私”の周りに壁を作ったんだ!
“私”は“私” 決して消えてなくなりなんてしない!
でも あの向こうには 何があったのだろう・・・?

崩壊と開放は 同時に起きる

外側にあった世界が どっと内側に入ってくる
別々に見えていたものが 一つに見える
“私”が“私”に溶け込み “私”になる

崩壊と開放は 同時に起きる

さあ “私”に 飛び込もう
恐れることはない
“私”は ずっと ここにいた

崩壊と開放は 同時に起きる

さあ 世界を抱きしめよう
恐れることはない
新しい世界は もう ここにある

 

 

“無”

“無” を恐れる人
“無” を恐れない人
“無” を前にして上げる声は
悲鳴か あるいは 歓喜か

“無” を恐ろしい怪物と描く人
“無” を穏やかな母性と描く人
“無” を前にして感じる鼓動は
早鐘のようか あるいは 凪のようか

静寂を 恐れる人
沈黙に 耐えられない人
何もしないことに 苛立つ人
そうではない 人もいる
無感動でも 無気力なのでもなく
その人の全てで それらを恐れない人がいる

“無” を無と捉える人
“無” を有と捉える人
“無” を前にしてとる行動は
拒絶し逃げ出すか あるいは 留まり溶け合うか

“無” とは何か それに答えがあるのなら
“無” は有る といことだろうか
“無” とは何か それを恐れるのなら
“無” は有る ということだろうか
“無” の中に入ったら そこで何を見るだろう
そこで 何を聞き 何を感じるだろう

“無” は 終わりか 始まりか
“無” は墓場か 故郷か それとも・・・

今 “無” を恐れる人たちが 世界中で猛威をふるっている
“無” を恐れない人たちも 世界中で猛威をふるっている
そして “真の無” を知る人たちが 目を覚ましている