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ひとり

「私はひとりだ」
そう言った途端 彼は世界から目を背けた
「必要とされないなら」 と彼は立ち去り
「必要でないのなら」 と人々も彼から立ち去り
風も木々も鳥たちも 口を閉ざした

「私はひとりじゃない」
そう言った途端 彼は世界と向き合った
「必要なのだ」 と彼は立ち上がり
「必要ならば」 と人々も彼へ手を伸ばし
風も木々も鳥たちも 語りはじめた

「私はここにる」
そう言った途端 彼から幻想が消え去った
「必要なものはここにある」 と彼は世界と共に歩き出し
「あれもこれも必要なかったんだ」 と人々も自分の足で歩き出した
風も木々も鳥たちも うたいはじめた

ひとりを嫌がる人は 自分のことしか見ていない
ひとりを好む人は 自分を含めた世界を見をている
孤独は寂しいことじゃない
世界自身であることなんだ

あなたは ひとりじゃない
私たちが ここにいる
あなたは ひとり
私たちと同じ ひとつだ

 

 

愛の人

愛されたいと 願う人がたくさんいる
愛されたくて 相手を束縛する 注文をつける 攻撃する
愛されたくて 相手に自分を明け渡す 着飾る 目をつぶる
どうしたら 私を愛してくれるの?

愛して欲しかったと 嘆く人もたくさんいる
生まれた環境が悪かった 両親の育て方が悪かった
社会の仕組みが悪かった 人間関係が悪かった
だから 私は愛を知らない 信じない もう諦めた

地球は どうだろう?
愛されなくても ここにいてくれる
愛されなくても 住む場所を食べ物を与えてくれる
愛されなくても たくさんの多様な体験を学ばせてくれる
愛されなくても 宇宙の中を運んでくれる

どうして 自分の望む愛の形でなきゃ受け取ろうとしないのだろう
どうして ここに存在しているということだけでは満足できないのだろう
どうして 世界は生命で溢れているのに孤独だと言うのだろう

あれでなくちゃ こうしてくれなくちゃ
あれを手に入れなくちゃ こうゆう状態じゃなくちゃ
不満はつのり 不足は不足を呼んで 苦しむばかり
でも それらを解放した時 本当に必要なものが目の前に 愛と共にどっと流れ込んでくる

外側の世界は自分の内側の世界の反映
愛の人は 世界に愛を見る
どんな環境も どんな状況も あなたが本当の愛に気づくため
あなたがその愛に目を向ければ 溢れるほどの愛が すでにここにあったことに気づく
そして その開かれた目で世界を歩いていくならば あなたの世界は愛に満ちていき
これまで愛に条件をつけていた自分が可笑しく思えてくるだろう

 

 

私の歩む地球

ドクン ドクン ドクン ドクン
輝く透明な虹色 私がこれから歩んでいく地球
ドクン ドクン ドクン ドクン
鮮やかで軽やかな風が吹く
誰もが創造者として立ち上がり
同時に存在するエネルギーを選択しながら歩いて行く
それぞれのペースが尊重され その美しい調べが世界を彩る
多様な世界は共に育むものとなり
行き交う力は豊かな森を広げ すべての人に必要な実が分けられる
抜けるような青い空
輝く水面 創造と破壊を伝える波の音
深海は現出する前の満ちたる大いなる静寂を秘め
クジラの飛沫が時を告げる
星々はここにあり
血を沸き立たせる太陽は 新たな体験の場を提供する
木々のざわめきはうたとなり
全ての生命の螺旋を描く輪の中心に湧き出す泉は雨を呼び 開かれた物語を紡ぐ
みずみずしい金緑の草原を この地に生まれた喜びに子供たちが走っていく
働くことは個々の真の目的を生きることとなり
勝敗は相手を負かすことではなく
称賛は生を全うした死の時に与えられる
連なる山々の教え 宇宙の鼓動と呼応するマントル
月の満ち欠けは静と動のリズムを伝え
暗闇に灯すあたたかな明かりは血を沈め 夜の扉をノックする
豊かな眠りは豊かな生活を創り出し 豊かな呼吸は世界と共鳴し
怒りは満ち足りた心に溶かされ 孤独はひとつの中に抱きしめられる
見えるものと見えないものへの比重が変わり
純粋な意図が人々を繋げる手段となる
存在はここにあり
肉体の目は内なる目によって開かれ 世界の中にありながら世界自身を体感する
ドクン ドクン ドクン ドクン
新しい地球はすでにここにあり
伸ばした手があなたに触れる
ドクン ドクン ドクン ドクン
私たちが歩みはじめた地球
今初々しく目の前に広がり
見上げた空から 輝く透明な虹色の雨が降る

 

 

世界との関係を再び取り戻すために

「早く歩きすぎた」とインディアオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」
わたしたち、つまり工業社会の“文明”人は、この“未開な”インディオから多くを、とても多くを学ばなければならないと思う。外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった。ここの現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。舌を垂らしながら、わたしたちは他の者を追いかけ、駆けているが、しかしそれは狂気と化した円舞なのだ。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩とよんでいる。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <考えさせられる答え>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

時々、思う。
私たちは、何をそんなに急いでいるのだろう? 何に対して、そんなに必死に合わせようとしているのだろう? と。

確かに、急がなくちゃいけないという感覚はある。それもだいぶ危機迫った感じで。でも、それは何かを開発することや規則を作らなければならないというのではなくて、もっと根源的なものが脅かされているという切迫感。
世界はどうなってしまうのだろうと、不安に感じている人が一層増えてきているからなのかもしれない。大規模な自然災害だけではなく、人の心が壊れてしまっているのが、多くの人の目に見えるように表に出てきているのだし。でも、不安に思うってことは、気づいたってことでもある。だから、このままじゃいけないと立ち上がろうとしている人もいよいよ増えてきているのかもしれない。

奇妙にも、聖書に同じような文章を見つけた。「世界を手に入れても、魂をきずつければ、何の得だろう」(「マタイ福音書」十六章二十六節)。ああ、魂がなんだというのだ! 魂など、とうの昔に道すがらどこで忘れてきてしまった。未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう。そう思いませんか?

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <考えさせられる答え>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

便利さを優先してきた結果、ちょっとでも不便なことがあるとすぐに苛立つ。ちょっと前までそれがなくても苛立つことなんてなかったのに・・・。レンジでチンで、何がわかるだろう? それは、身体を心を健康にするだろうか。料理をすることでも、気づくこと、学べることはたくさんあるのに・・・。何でも手っ取り早く簡単に、というのは、とても乱暴で暴力的にも感じる。「時短、時短!」と嬉しそうに言うけれど、豊かさまでも削り取ってしまってはいないだろうか、と心配になる。
最近「丁寧な暮らし」というものが見直されてきているのは、今までの暮らし方はどこかおかしいのではないかと気づき、本当に心を豊かにしてくれることとは何なのだろう、と考えはじめた人が増えているからなのかもしれない。
もちろん、新しい開発をしない方がいいってことじゃない。心を伴った、世界との関係性を保ったものができれば、とても嬉しい。

百年以上にわたって、ヨオロッパはただもう研究と、工場の建設ばかりやってきた。かれらは、人間ひとり殺すのに、何グラムの火薬がいるかということは、くわしく知っている。しかし、どうやって神に祈るかということは、知らないんだ。どうやったら、一時間でも満足していられるかということさえ、知りやしない。

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

われわれは自然に帰る道を再び見つけ出さなければならない。この道がどこにあるのかを、ひとつの単純な考え方が教えてくれる。確かにわれわれは自然から切り離されてしまった。しかしわれわれはそこから何かを内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいるに違いない。この内なる自然を見出さなければならない。そうできれば、関係が再び見出されるであろう。

(参考:ちくま学芸文庫「自由の哲学」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

土に触れよう。太陽に手をかざそう。新鮮な水を飲もう。土は、汚くないよ。太陽は、教えてくれるよ。水は、繋いでくれるよ。
ほら、聞こえるようになったでしょう? これが、この星の、この宇宙のうた。
急がず急ごう。風は吹いている。黄金の風が、今。
あなたの内で力強く鼓動するもの、底なしに温かく輝くもの。
ほら、見えるようになったでしょう? これが、世界。本当の自分の姿。
急がず急ごう。風は吹いている。黄金の風が、今。

私たちは、世界を変えた。だから、これからだって変えられる。一人一人の選択で。

そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま
(中略)

襟足の匂いが風に乗って漂ってくる
どてらのような民族衣装
陽なたくさい枯れ草の匂い

何が起ころうと生き残れるのはあなたたち
まっとうとも思わずに
まっとうに生きているひとびとよ

(参考:小学館「永遠の詩02 茨木のり子 <時代おくれ>」高橋順子選・鑑賞解説)

 

 

世界に不安を抱くあなたへ

one cloud「核シェルターをつくるのは物質的な人間のやることだ。心の中に平和をすでに持っている人は、大生命の避難所の中にいる。悪には避難所はない。イデオロギーによる世界の分裂に加担しないものは、黒人であれ、白人であれ、赤色人であれ、黄色人であれ、次の世界に生を受けることができる。彼らはみな一つ、兄弟なのだ」

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)

時々、思う。
生き残るとは、どうゆうことだろう? と。

荒れる気候に、荒れる人間、世界はどうなってしまうのだろうと恐怖に近いほどの不安を感じ、それを回避するために、浅い呼吸のまま動き回っている人がいる。自分も荒れているということに気づかずに・・・。
頑丈な建物を立てて、たくさんの食料をため込んで、一歩も外に出なければ、私たちは生き残ることができるだろうか? 想像してみる。果たして・・・
頑丈な建物の中で、十分なモノがそろっていて、十分な食事ができても、心が病めば身体は死へと向かうし、ひとりじめしようとする人たちはきっと出てくるだろうし、気に入らない相手がいたら殺し合いが起きるかもしれない。でも、私たちには理性と創造力があるから、それでも何とか工夫してやっていけるかもしれない。でも、太陽の陽に当たらずに生きられるだろうか。人工の太陽を作る? 人工光で野菜を作る時代だし。いや、いっそのこと地球外に脱出する? そんな計画も実際にあるようだし・・・。
でも、そもそもそれを“生きる”と言えるだろうか? それは何だかとても身勝手で無責任のような気がする。私たちは地球にいるのに、その地球に背を向けてまで生き延びようとするのは、どうなんだろう・・・?

自然は敵ではないはず。全体を見ない思い込みだけで動く人間の方が、私は恐い。
自然の脅威には勝てない、と言うけれど、そもそも自然に勝ち負けはないし、自然はすべてを死なせるほどのことはしていない。台風を嫌がるけれど、サンゴにとってはありがたいことだし、大雪は大変だけど、土は栄養たっぷりになって、おいしいお米を作ることができる。それは死と同時に新たな生を生み、循環する大きな生命体のよう。
私たちはどうだろう? 私たちは、すべてを死に至らしめるほどの科学技術をすでに手にしている。それは使えば再生不可能なものを生み出し、何にも繋がるものはなく、輪は回転を止めてしまう。流れが止まれば、後は腐っていくだけだ。私たちは、どうして自ら循環しない死を選んでいるのだろう? 私たちが生き残るためだと言いながら・・・。

自分たちが世界を動かしていると思っている人たちを見ていると、とても怖いことをしているな、と感じることがある。でも、そんな彼らは私たちに何を見せてくれているのだろう? と考えてみる。
彼らがそうすることで、私たちは「もう彼らには任せられない。私たち一人一人がしっかり自分の足で立たなければ!」と思うようになるかもしれない、という考えが浮かぶ。

私たちがやることは、彼らを負かすことではないはず。本当の力がどこにあるのか、本当に世界を動かしているのは誰なのかを思い出すことなのではないだろうか。
私たちが力を取り戻したとき、きっと世界は一変するはず。
否、もうそれはすでにはじまっている。世界のあちこちで。まだニュースには取り上げられていないところ、世界は終わると言っている人たちが目を向けないところではじまっている。
ちゃんと目を開けて自分の足で歩んでいる人たちは、いつの時代にもいた。あれこれ言われながらも、あるいは命がけで繋いできてくれた人たち。そして、私たちの時代にもそれを繋いでいこうとしている人たちはいる。多くの人が、こちらを向いてくれるのを願いながら。

人間が誕生した当初、頭頂にはコパピ(開き戸)と呼ばれる柔らかい部分があった。人間はここを通して生命を受け、創造主と交わったのである。赤い光タウラバの時代、創造の最後の段階で、柔らかい点は固まり閉ざされてしまった。これは人間が死ぬときまで閉じたままであり、死に至って生命が飛び立つために開かれる。
(中略)
「お前たちはある場所へ行く。コパピがお前たちを導くだろう。内なる知恵は、ある光景を示すだろう。それは昼は特定の雲、夜は特定の星となってお前たちを導く。何ももたずに行け。雲が止まり星が止まったとき、お前たちの旅は終わる。」こうして選ばれた人々は第一の世界のあちこちで住み慣れた土地を捨て、昼は雲、夜は星に導かれて旅を始めた。他の人々は「どこへ行くのか」と尋ね、「雲も星もみえないぞ」と言って彼らを嘲笑った。彼らのコパピは頑なに閉ざされ、内なる視界を失ってしまったのである。

(参考:平凡社新書「インディアンの夢のあと 北米大陸に神話と遺跡を訪ねて」徳井いつこ著)

私は何か起きたとき、静かに耳を澄ます。そうすると、心の落ちつきと同時に視界がクリアに広がっていき、やるべき事や行くべき場所を知ることができる。そして、それに疑わずについていくと、つまずくことなく歩いていける。
自分で選んだ道を行けば、他人から見たら失敗だと思われるようなことでも、その先に行った時、もっと大きな視点から見ることができるようになった時には、それは失敗ではなかったことがわかる。そして、あっちこっちから聞こえてくる情報や噂話に振り回されることもなくなり、誰かが作り出した幻想も、自分で作り出した幻想も消えていく。

扉を閉ざすのは、不安や怒り、独りよがりの欲望。そこは閉ざされていて、繋がれるものが何もない。
扉を開けるのは、平和であること。ただ、それだけ。そこは透明な風が吹き、大きな生命と繋がっている。
不安を抱くのは、繋がっていないから。いや、ずっと繋がっているのに、それを忘れてしまっているから。
小さな世界を飛び出して、大きな視点で世界を生きてみませんか?
それは、すでに始まっています。この地球と共に。この宇宙と共に。
壊れていく世界に目を向けるのではなく、創られている世界に目を向けてみませんか?
そのとき、大きな風と共に、新しい世界があなたの目の前にやってくる。そして、グッと背中を押してくれるでしょう。

あなた方は、地球そのものにこれを読みとることができる。前の世界にあった植物が、種子として発芽し始めているのだ。それを読みとれるほどの目があれば、新しい植物学を開けるだろう。同じ種類の種子は天の星々にも植えられつつある。同じ種子がわれわれの心の中に植えられようとしている。このすべては一つであり、あなた方がそれをどう見極めるかにかかっている。これが、次の第五の世界への出現を作るのだ。

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)