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子供たちに読み聞かせをする方へ

「読み聞かせはいいよ」ということをよく耳にするけれど、それを行なう人は、ただいいと言われているからやるのではなく、是非、“物語”とは何なのか、ということを考えてみてから行なっていただければ、もっともっとすてきな事になるのではないかと思います。

「・・・教師から子どもに向かって働く作用は、頭で考え出したり、概念で表したりできるものではありません。そこには、生命の計り知れない作用が働くのです。教育者から子どもに向かって、おそろしく多くの作用が流れていきます。教師はそのことを意識していなければなりません。特にメルヘンや物語、伝説を子どもに物語るときには、そのことを心得ていなければなりません。私たちの物質主義の時代の傾向として、教師が自分で語っていることを幼稚に感じているということがしょっちゅう見受けられます。自分で信じていないことを、子どもに語っているのです。
(中略)
神話やメルヘンは、高次の真理がイメージによって表現されたものだからです。私たちは神話、伝説、メルヘンをふたたび魂を込めて扱えるようになります。そのことによって、私たちが子どもに向かって語るときの言葉は、その内容についての自らの信仰に貫かれます。その言葉が子どもに向かって流れるのです。それは教育者と子どもの関係の中に、真実をもたらします。
しかし、教育者と子どもの間にはえてして、偽りがはびこっています。子どもは愚かで、自分は賢い、子どもはメルヘンを信じる、だからメルヘンを話してあげなければならない、と教師が思ったとたん、偽りがはびこりはじめます。」

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <訳者あとがき>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

エンデは「鏡のなかの鏡―迷宮―」で、こう書いていました。

「正しい方法を心得ている者が語って聞かせるとき、童話は全部ほんとうだ。」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <25>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

サン=テグジュペリは「星の王子さま」で、こう書いていました。

ぼくは、この話を、おとぎ話みたいに、はじめたかったのです。そして、こんなふうに話したかったのです。「むかし、むかし、ひとりの王子さまがおりました。その王子さまは、じぶんより、ほんのちょっと大きい星を家にしていました。そしてお友だちをひとり、ほしがっていらっしゃいました・・・」
こうすると、ものそのもの、ことそのことをたいせつにする人には、話がもっともっとほんとうらしくなったでしょうに。

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

そして、ル=グウィンは、録音した声ではなく、生の生きた声で語ることについてこう言います。

ぐるっと輪になった子どもたちの顔を、熱心さのあまり輝いている彼らの顔を見てほしい。だから、各地を回り、本屋で自作の朗読をする作家と、それに耳を傾ける聞き手の集団は、輪の中心に語り手が位置する古代の儀礼を再演するのである。生きた反応があるからその声は語ることができた。語り手を聞き手、それぞれが相手の期待を満足させるのだ。言葉を語る生きた舌、そしてそれを聞きとる生きた耳が、私たちを束ね、結びつけて、内なる孤独をもたらす沈黙のなかでわたしたちが切望する交わりをつくりだすのである。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <語ることは耳を傾けること>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

物語を読むことは、子供時代だけのものではありません。“現実”とされているこの世界に、ふと疑問を持った大人と言われるようになった人たちが物語を読んだとき、きっとみつけるはずです。「なんだ、ずっとここにあったんじゃないか」と。
「ほんをよんで!」小さな手で差し出された本。それは大人たちにも読んで欲しい本。「ママ、ここにたいせつなことがかいてあるよ」。真っ直ぐな瞳が、そう言っているのかもしれません。読み聞かせは、とても深いところでのコミュニケーションでもあるのではないでしょうか。

物語の世界は、大人も子供も一緒に冒険できる、時間も重力も超越した世界。
物語を読むことは(他の芸術もまた)、この世界をいろんな角度から見せてくれ、想像力を養い、内と外を繋げ、私たちを故郷へと導いてくれるものです。

 

 

力をくれた物語の世界(2)

sakura03すべての童話は、いたるところにあって、しかもどこにもない、かの故郷の夢である。真の童話は、予言的叙述、理想的叙述、必然的叙述でなくてはならない。
―ノヴァーリス

童話や伝説は、人間が生まれたときに人生遍歴にそなえて故郷から授けられるよき天使である。それは人生を通して、忠実に人間とともに歩む。童話や伝説が人間に付き添うことによって、人生は真にいきいきとしたメルヘンになる。
―ルドルフ・シュタイナー

(参考:イザラ書房「「泉の不思議」―四つのメルヘン」ルドルフ・シュタイナー著、西川隆範編・訳・解説)

メルヘン、ファンタジー、童話、伝説、神話、詩とは、何なのだろう? どうして、“現実”のことではなく“空想”のことを書くのだろう? そして、たくさんの比喩を使い、擬人化するのだろう? 「物語る」とは、どうゆうことなのだろう?

ルドルフ・シュタイナーの「メルヘン論」の「訳者あとがき」に、シュタイナーの言葉とともにこう書かれていました。

大宇宙や人間存在の秘密を直観した人間は、その洞察を文章ではうまく説明することができない、とシュタイナーはいいます。その体験内容を生きいきと表現するためには、メルヘンという形式がいちばんふさわしいというのです。シュタイナーによれば、「真のメルヘン」の背後には霊的な体験が横たわっています。メルヘンの中に霊的な内容を込めた人々がいたのです。

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <訳者あとがき>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

ミヒャエル・エンデは、こう言います。

ポエジーは人間の創造力だ。常に新しく、自己を世界のなかで、世界を自己のなかで経験し、再認する能力である。だからこそ、どのポエジーもその本質において“擬人観的”なのだ。そうでなければ、それはポエジーではない。そして、まさにこの理由において、ポエジーは子どもらしさと同族なのである。

ポエジーという言葉でわれらが意味するのは詩や本だけではない。それは生の形式であり、経験でき、体験できる世界解釈なのだ。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <ある中央ヨーロッパ先住民の思い>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

さらに、

私にそうさせるものは何か。それは〔・・・〕われわれ全員の潜在意識に、心のなかの出来事を夢の像のなかで表現させようとするものにほかなりません。私に言わせれば、ポエジーや芸術とはそもそも外部の像を内部の像に、内部の像を外部の像に変えることなのです(ところでこれは、どんな文化でも当然のことだったわけですが)。だから、ファンタジーという表現形式が思い浮かぶのです。私の考えでは、そういう「ポエジー化」(ノヴァーリス)だけが世界を、人間が住めるものにしてくれるのです。

(参考:岩波書店「「はてしない物語」事典―ミヒャエル・エンデのファンタージェン <ファンタージェン―国境のない国で道に迷わないために>」ローマン&パトリック・ホッケ編者、丘沢静也、荻原耕平訳)

ドイツ語の「メルヘン」は、語源的には「小さな海」という意味をもっているのだそうです。
海・・・。その言葉だけで、想像力をかき立てられます。美しいだけじゃなく、そこには大きな力が、破壊する力と創造する力が共存している。その境目はわからない。すべてが循環し、大きな円を描いている・・・。

英語では「ファンタジー」という言葉があります。

「ファンタジーはFの代りにPhで始まることもあるけれど」、おばさまは軽くせき払いをして答える。「ギリシャ語のファンタジアphantasia、語義は「目に見えるようにすること」に由来するのよ」。おばさまはファンタジアが、「目に見えるようにする」あるいは後期のギリシャ語では「想像する、ヴィジョンを抱く」という意味の動詞phantasein、そして「見せる」という意味の動詞phaineinと関係があることを説明する。続けておばさまは、英語の「ファンタジー」という言葉が最も初期にどのような意味を持っていたか、かいつまんで教えてくれる。外観、幻、感覚的知覚の精神的プロセス、想像力、誤った観念、奇想、気まぐれ。
(中略)
そういうわけで、「ファンタジー」という言葉は曖昧なまま、偽のもの、ばかげたもの、人を欺くもの、言わば精神の浅瀬と、精神の現実を結ぶ深いつながりと中間に立ち尽くしているのである。二つの領域にまたがる敷居の上で、この言葉は時にはあちらを向き、仮面と衣装を着け、軽佻浮薄な逃避主義者になる。しかしまた別の時にはぐるりとこちらを向き、わたしたちに天使の顔、明るく誠実な使者の顔、目覚めたユリゼン〔ウィリアム・ブレイクの予言書中の人物〕の顔をかいま見せるにである。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <現実にそこにはないもの>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私たちは、この世界で一体何を見ているのだろう・・・。目を閉じたとき、そこに感じる世界は、はたして・・・。
外側の世界を知らなければ、物語は書けません。ただ無知を知るだけです。そして、内側の世界を知らなければ、外側の世界を見ることはできません。ただ盲目になるだけです。
物語の世界は、目に見えない、耳に聞こえない、手で触れられない世界です。でも、それがまったく嘘のことや現実逃避の産物というのではありません。現実をしっかり見ているからこそ書けるのです。
天文学や気象学、騎士道にサバイバル術を学ぶことだってできます。そして、私たちの心のこと、力の本当の使い方、世界の秘密についても・・・。
別の次元で、私たちはその世界を見ることができるし、聞くことができるし、触れることができます。物語の世界は、確かに“ここ”にあるからです。
でも、“現実”ではありません。物語ることによって“本当の現実”を見せてくれるものです。木を見上げても、そこにチェシャ猫はいません。お気おつけください。

最後は、やはりこの詩で締めたいと思います。

もはや数や図形が被造物の手がかりではなくなり、
歌い、接吻する人が学識者より多くを知るとき、
世界が自由な生へ、次いで世界へ帰還するとき、
そしてふたたび、光と影が真の光明へと結ばれるとき、
人がおとぎ話や詩に真の世界の物語を見いだすとき、
そのとき、ひとことの神秘な言葉のまえに、
まちがったものすべてが消え去る。

※ノヴァーリス「青い花」の中の詩

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <ある中央ヨーロッパ先住民の思い>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

 

 

力をくれた物語の世界(1)

わけも知らず、この世に自分の故郷がないと感じる人がいるものだ。まわりの人たちが現実と呼ぶものが錯覚に思われる。それは、混乱した、しばしば苦痛を与える夢、はやく覚めればいいと思う夢に思われる。あたかも冷酷な異郷への流刑のごとく、この世にとどまれと、裁きをうけたかのようだ。尽きない郷愁を胸に、もうひとつの現実にあこがれる。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 ―道しるべの伝説―」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

幼い頃から家には本がたくさんあって、図書館に行くことも好きでした。でも、次第に本を読まなくなっていきました。
その頃は、外側の世界がドドドッと迫ってきて、何とかこれをこなしていかなければ、という感じだったような気がします。そして、いろんなものがあっちからもこっちからも飛び込んできて、いろんな人たちに出会っていろんな経験をしたけれど、常に何かが違うという感覚を同時に持っていたような気がします。
そして、深い深い谷に落っこちて、ボーッと遠い遠い空を見上げながらまた本を読むようになり、離れてしまっていたものがドドドッと戻ってきて、“この世界を生きること”のすべてがすでに書かれていたたことに気づき、ようやく自分を取り戻した感じがしました。
本を読んでいた子供の頃それに気づかなかったのは、まだ実際に経験をしていなかったからなのかもしれません。そして、外側に向かっていた頃の私は、その道しるべを放り出してしまった。
それなら、持ったままいればよかったのか。それは、わかりません。私は、放り出して目を閉じて、そこでいろいろな経験ができました。褒められるような生き方はできていないけれど、いろいろな自分の感情や考え方、そして、いろいろな人の感情や考え方を知ることができました。
物語の世界は、そんな私に再び力を与えてくれました。常に違うという感覚、それは正しかったのだと認めてくれました。そこにはいつもみずみずしい風が吹いていて、“それ”がありました。失われることなく、今もこれからも、それはあり続けるでしょう。

ミヒャエル・エンデさんの「自由の牢獄」の訳者田村都志夫さんの「あとがき」にこうありました。

デカルトがあの有名な言葉をはき、ヨーロッパで精神と物質世界の二元論が大手をふって歩きはじめてからもう350年が過ぎた。そして巨視的に見れば、私たちは今日もこの二つに分離せられた世界の、それも物質世界の方を大方現実として生きているのである。ミヒャエル・エンデにとって、このような単次元の現実はあまりに貧しいものだ。エンデ文学では精神世界の現実をはじめ、さまざまな現実の報告が行われる。それはエンデにとって、眼前の現実よりはるかに深い意義を持つ、豊かなものである。なぜなら、それは心の彼方に広がる、私たちがいつもそこから出発し、いつもそこへ帰ってゆく地平だからだ。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 <訳者あとがき>」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

私もひっちゃかめっちゃかだった頃でも、絵を描いたり何かを生み出すことをしている間は、世界を分けるような感覚はなくなり、そこに“それ”があって、それを説明できなくても、確かにあるという感覚と共にあるときは、安心と解放の中にいることができていました。

魂の奥底にきわめて漠然とした、考えうるかぎりにまったく漠然とした、意識には上がってこない体験が安らいでいます。
この体験が、昼間の目覚めた意識の中に入り込むことはまったくありません。しかし、魂の中に何かが存在しています。ちょうど、からだの中に空腹感が存在するようにです。そして、空腹になると何か食べるものが必要になるように、魂の奥底での体験に由来するこの漠然とした気分にも、何かが必要です。そこで人は切実な思いで手近のメルヘンや民話を読むか、もしくは、芸術的な性質の人であれば自分で何かを創り出そうとします。その際、人は、理論に必要なすべての言葉も、これらの体験についてはまるでどもっているようなものだと感じます。そのようにしてメルヘンのイメージが生まれます。このように意識的に魂をメルヘンのイメージで満たすことは、魂の飢えに栄養を与えることになります。

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <霊学の光のもとにみた童話>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

アーシュラ・K・ル=グゥインさんは、エッセイ集「夜の言葉」の中で、ダンセイニの作品中から「内陸(インナー・ランド)」という言葉を使いました。そして、作家と作品に対しては「解放者であり、指針であった」と書いています。
私たちはその場所を思い出し、忘れてはいけないのだと思います。そこが私たちを再び真の世界へと繋いでくれる場所だからです。
私にとって物語に書かれている言葉は、外側から聞こえてくる言葉よりもずっとずっと共感できることで、本当の力を与えてくれるものでした。

どんな本も受け入れ、誰にでも開放されている図書館がいつまでもあることを願っています。

またしてもヒエロニムスは長い間、もの思いに沈んだ。そして、かすかな力をふりしぼって、こう答えた。「聖書に書かれている、徴と奇跡は、まったく普通の人々にも起こったのではないでしょうか」
(中略)
この光の前では罪や功労が問題ではない。もうひとつの世界では、そのようなものはないのだ。

(参考:岩波書店「自由の牢獄 <道しるべの伝説>」ミヒャエル・エンデ作、田村都志夫訳)

 

 

制作中の想い事

制作中のキャンバスに向かってひたすら描いている姿は、大きなアクションもなく、同じような姿勢でずっと同じ場所にいるように見える。でも、同時に大冒険をしている。耳に聞こえない、目に見えない場所での大冒険。

絵画を観ているとき、そこから聴こえてくる音は、人それぞれ違うのだろう。
本を読んでいるとき、そこに見える風景は、きっと全く同じではないのだろう。
音楽を聴いているとき、そこにあらわれる色もまた違うのだろう。
それぞれの中に、それぞれの世界をみている。
この世界も、また・・・。
でも、共鳴した瞬間は、どうしてあんなに気持ちがいいのだろう。

“始原の遊戯” 好きな言葉の一つ。この冒険に欠かせないもの。
「果てはあるのか?」と、浮かぶままに描いてみる。
行き着く前に、紙とインクがなくなった。物質化は一時中断。“出来上がる”には、いろいろ道具が必要だ。
でも、目を閉じればそこに有る。
どうやら、果てはないようだ。

尽きることのないエネルギー。誰もがそのエネルギー。

“一枚の絵は千語にまさる”。力強い言葉を知った。
言葉であれこれ説明しなくても、その前に立てば、スッと繋がることができるからだろうか。
余白に、そして、それを見る人との間に、世界の秘密がチラリと姿をあらわすからだろうか。

“この世界もまた絵のようだ”。と言う人がいる。
どこに視点を合わせるかで、見える世界が、体験する世界が変わるからだろうか。
そして、自分が成長すれば、同じ世界も違って見えるからだろうか。
まだ意識を向けていないものが、きっとたくさんあるのだろう。
この世界は、可能性で溢れている。

何を描こうか。何を創ろうか。
真っ白なキャンバスに、そっと色を置いたその瞬間、世界が動き出す。
制作中は、地球の仕事。
冒険中は、地球と宇宙との仕事。
睡眠中は、宇宙の仕事。
でも、きっとどんなことでもそうなんだ。誰にだって起きていることなんだ。

 

 

創造者と観察者

tomatoよく、こういう質問がくる。「いつ、完成って決めるんですか?」
私は、こう答える。「自分の身体から離れる瞬間があって、そうなったら完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、観る人それぞれのものになります。だから、そこに私はいるけどいない、ってゆう感じになります」

ノヴァーリスの本の中に、こう書かれているところがありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく ―そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない ―その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

描き終わると、“私のもの”という感覚がなくなってしまう。だから、画面にサインを書くということに昔から抵抗があって、私はほとんど表から見えないところに書いている。本当は、それすらもあまりという感じ。観る人にとっても、色眼鏡が一つかかってしまうんじゃないかというような気もするから。

もう一つ、よく質問される問いがある。「どうやって想いつくのですか?」
想いつくというより、「みえたから」。
私は、それを創るだけ。内と外の循環を繰り返しながら創り上げていく。あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへと変換していく。制作中は、創造者でありながら、観察者でもある。

こんな質問もある。これがとても多い。「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」
完成までに時間が長くかかったのだと答えると、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね」とかえってくる。完成までの時間が短かったと答えると、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね」とかえってくる。
それよりも、ただ“みる”ことをすれば、それだけでいいのでは・・・と思う。

無理に作家と会話をしなくてもいいのだと思う。出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのだから。それに、がっかりすることもあるかもしれない。作品から受けるイメージと作家本人があまりにも違うために・・・。作品は、作家自身から生まれてくるものではあるけれど、それは作家自身がまだ知らないことだったりもする。だから、作品の説明も100%正確にできるわけではない。出来上がった作品から教えられるということは、多々起きていること。作品は、作家自身であって、作家自身ではないのだから。
作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界がなくなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分なのではないだろうか。そして、それを報告しなくてもいいのだと思う。ちゃんとわかっているから。
だって、説明できないものでもあるのだし、説明した途端、別物になってしまうこともあるのだから。
私は、その様子を見るだけで大満足。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができただけで。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう思っています。