力をくれた物語の世界(2)

sakura03すべての童話は、いたるところにあって、しかもどこにもない、かの故郷の夢である。真の童話は、予言的叙述、理想的叙述、必然的叙述でなくてはならない。
―ノヴァーリス

童話や伝説は、人間が生まれたときに人生遍歴にそなえて故郷から授けられるよき天使である。それは人生を通して、忠実に人間とともに歩む。童話や伝説が人間に付き添うことによって、人生は真にいきいきとしたメルヘンになる。
―ルドルフ・シュタイナー

(参考:イザラ書房「「泉の不思議」―四つのメルヘン」ルドルフ・シュタイナー著、西川隆範編・訳・解説)

メルヘン、ファンタジー、童話、伝説、神話、詩とは、何なのだろう? どうして、“現実”のことではなく“空想”のことを書くのだろう? そして、たくさんの比喩を使い、擬人化するのだろう? 「物語る」とは、どうゆうことなのだろう?

ルドルフ・シュタイナーの「メルヘン論」の「訳者あとがき」に、シュタイナーの言葉とともにこう書かれていました。

大宇宙や人間存在の秘密を直観した人間は、その洞察を文章ではうまく説明することができない、とシュタイナーはいいます。その体験内容を生きいきと表現するためには、メルヘンという形式がいちばんふさわしいというのです。シュタイナーによれば、「真のメルヘン」の背後には霊的な体験が横たわっています。メルヘンの中に霊的な内容を込めた人々がいたのです。

(参考:書肆風の薔薇「メルヘン論 <訳者あとがき>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋弘子訳)

ミヒャエル・エンデは、こう言います。

ポエジーは人間の創造力だ。常に新しく、自己を世界のなかで、世界を自己のなかで経験し、再認する能力である。だからこそ、どのポエジーもその本質において“擬人観的”なのだ。そうでなければ、それはポエジーではない。そして、まさにこの理由において、ポエジーは子どもらしさと同族なのである。

ポエジーという言葉でわれらが意味するのは詩や本だけではない。それは生の形式であり、経験でき、体験できる世界解釈なのだ。

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <ある中央ヨーロッパ先住民の思い>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)

さらに、

私にそうさせるものは何か。それは〔・・・〕われわれ全員の潜在意識に、心のなかの出来事を夢の像のなかで表現させようとするものにほかなりません。私に言わせれば、ポエジーや芸術とはそもそも外部の像を内部の像に、内部の像を外部の像に変えることなのです(ところでこれは、どんな文化でも当然のことだったわけですが)。だから、ファンタジーという表現形式が思い浮かぶのです。私の考えでは、そういう「ポエジー化」(ノヴァーリス)だけが世界を、人間が住めるものにしてくれるのです。

(参考:岩波書店「「はてしない物語」事典―ミヒャエル・エンデのファンタージェン <ファンタージェン―国境のない国で道に迷わないために>」ローマン&パトリック・ホッケ編者、丘沢静也、荻原耕平訳)

ドイツ語の「メルヘン」は、語源的には「小さな海」という意味をもっているのだそうです。
海・・・。その言葉だけで、想像力をかき立てられます。美しいだけじゃなく、そこには大きな力が、破壊する力と創造する力が共存している。その境目はわからない。すべてが循環し、大きな円を描いている・・・。

英語では「ファンタジー」という言葉があります。

「ファンタジーはFの代りにPhで始まることもあるけれど」、おばさまは軽くせき払いをして答える。「ギリシャ語のファンタジアphantasia、語義は「目に見えるようにすること」に由来するのよ」。おばさまはファンタジアが、「目に見えるようにする」あるいは後期のギリシャ語では「想像する、ヴィジョンを抱く」という意味の動詞phantasein、そして「見せる」という意味の動詞phaineinと関係があることを説明する。続けておばさまは、英語の「ファンタジー」という言葉が最も初期にどのような意味を持っていたか、かいつまんで教えてくれる。外観、幻、感覚的知覚の精神的プロセス、想像力、誤った観念、奇想、気まぐれ。
(中略)
そういうわけで、「ファンタジー」という言葉は曖昧なまま、偽のもの、ばかげたもの、人を欺くもの、言わば精神の浅瀬と、精神の現実を結ぶ深いつながりと中間に立ち尽くしているのである。二つの領域にまたがる敷居の上で、この言葉は時にはあちらを向き、仮面と衣装を着け、軽佻浮薄な逃避主義者になる。しかしまた別の時にはぐるりとこちらを向き、わたしたちに天使の顔、明るく誠実な使者の顔、目覚めたユリゼン〔ウィリアム・ブレイクの予言書中の人物〕の顔をかいま見せるにである。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <現実にそこにはないもの>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私たちは、この世界で一体何を見ているのだろう・・・。目を閉じたとき、そこに感じる世界は、はたして・・・。
外側の世界を知らなければ、物語は書けません。ただ無知を知るだけです。そして、内側の世界を知らなければ、外側の世界を見ることはできません。ただ盲目になるだけです。
物語の世界は、目に見えない、耳に聞こえない、手で触れられない世界です。でも、それがまったく嘘のことや現実逃避の産物というのではありません。現実をしっかり見ているからこそ書けるのです。
天文学や気象学、騎士道にサバイバル術を学ぶことだってできます。そして、私たちの心のこと、力の本当の使い方、世界の秘密についても・・・。
別の次元で、私たちはその世界を見ることができるし、聞くことができるし、触れることができます。物語の世界は、確かに“ここ”にあるからです。
でも、“現実”ではありません。物語ることによって“本当の現実”を見せてくれるものです。木を見上げても、そこにチェシャ猫はいません。お気おつけください。

最後は、やはりこの詩で締めたいと思います。

もはや数や図形が被造物の手がかりではなくなり、
歌い、接吻する人が学識者より多くを知るとき、
世界が自由な生へ、次いで世界へ帰還するとき、
そしてふたたび、光と影が真の光明へと結ばれるとき、
人がおとぎ話や詩に真の世界の物語を見いだすとき、
そのとき、ひとことの神秘な言葉のまえに、
まちがったものすべてが消え去る。

※ノヴァーリス「青い花」の中の詩

(参考:岩波書店「エンデのメモ箱 <ある中央ヨーロッパ先住民の思い>」ミヒャエル・エンデ著、田村都志夫訳)