内にある光と闇と真の光

fish「なぜクモがこんなにイヤなのでしょうか。」
「なぜならあなたの存在そのものがクモだからです。」
こんな会話をシュタイナーが弟子のひとりと交わしていた、と以前きいたことがある。随分以前のことだが、かなり強烈な印象となって後に残った。私の中で悪のことが問題になってから、この会話は悪を語っている、と思うようになった。
「なぜ悪がこんなにイヤなのでしょうか。」
「なぜならあなたの存在そのものが悪だからです。」

(参考:春秋社「シュタイナー 悪について <訳者あとがき>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

時々、思う。
みんなにとっての、世界にとっての、“善いこと”とは、何だろう? と。

「“善いこと”をしているつもりなのに・・・」という経験をしたことはないだろうか?
「わたしは、あなたのためを思ってこうしたのよ。それなのに・・・」。それは、本当に相手が望んでいたことだったのだろうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは? それとも、善い人って言われたかったから?

難攻不落の言葉、“正義”とは? “正義”を掲げて人を殺すのは、“善いこと”だろうか?
その人を満たすために必要なのは、自分とは違う考えを持つ者。私が正しいのだから、それを否定する者はみな悪なのだと、それを排除することが「みんなの幸せ」なんだと正義を掲げて闘う。そして、悪だとされた側も、そう言うお前たちこそ悪なのだと、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために闘う。
どちらも同じに見えないだろうか。

自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならない。自分が善い人でいるために不幸な人を探し、不幸な人がいなくならないように。
一体、誰のためだろう? 自分を満たすためだけなのでは? 敵がいる方が都合がいいもの。世界が混乱していた方が、不幸な人がいた方が都合がいいもの・・・と。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる明るい野原に、戦場へ向かう空飛ぶ軍艦のような機体があらわれ、それを見ながらソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

「みんなの幸せ」のために戦争をする。「みんなの幸せ」のために自由を奪う。「みんなの幸せ」のためにこの星を破壊する。「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に私たちの幸せに繋がっているのだろうか。それは、自分の座っている方の枝を切っていることにはなっていないだろうか。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪は、よく気づく。では、自分の中にある悪には気づいているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか。
世界を変えようと思うならば、まず自分のことから取りかからなければいけないのではないだろうか。

「いや、星の王子様なんて言うから、てっきり。まさかあんなしょぼくれた中年が・・・」
しかもコオロギだなんて、と言ってプッと吹き出す亘を、夏夫はキッとにらみつけた。
「おまえがなぜ女にモテないか、もうひとつわかった」
そう言うと、一瞬にして真剣な顔になった亘に「サービスだぞ」と言ってから続ける。
「それは、おまえが救いがたく心の卑しい人間だからだ。自分はチッポケな人間だと理解しながら、一方で自分より小さな人間を貪欲に探している。ワイドショー好きの主婦のようだ」
ミアも「ヨウダ」と続けた。同感だと言いたいらしい。夏夫はさらに言う。
「しかもなお悪いことに、人間を表面的な見てくれで判断しようとする。おれには、愛の花火がどこで打ち上げられたか、全力で走り回った彼が、星の王子様に見えたけどな」
ミアが「ケドナ」と言う。亘は情けなくて涙が出てきた。

(参考:ワニブックス「世紀末の詩」野島伸司著)

物語の世界では、闇や影と対決する場面が多くある。そして、物語に悪役として登場してくるものたちは、とても魅力的でもある。彼らは、私たちに何を気づかせようとしているのだろう? “悪”とは、単純に悪いことで排除しなければいけないものなのだろうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストーフェレスは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだった。
ル=グウィンの「ゲド戦記」で、ゲドが戦った影もまた。

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

悪や闇や影は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させるきっかけを作ることになったりする。そして、物語の終わりに、その役目を果たしたように世界の中に消えていく。いつでもまた戻ってくるよ、と余韻を残しながら。
悪や闇や影は、私たちを真の光へと導く案内人。
悪や闇や影は、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると、彼らは教えてくれます。光と闇は、別々のものではなくひとつのものであり、それを超える世界があるのだと教えてくれます。彼らの悪の面だけに魅了されたりのみ込まれたりしなければ・・・。

どんなに嫌な人もどんなに大変な事も、次のステージへと自分を引き上げてくれる人や事なのかもしれない。すぐに否定をしないでグッと見つめてみたら、そこに自分自身を見つけるかもしれない。そのことから、自分のまだ知らない可能性を見つけるかもしれない。
そうして見てみると、この世界に悪はないのかもしれないと思うようになる。そのことに気づかないから、悪があらわれるのではないだろうか。

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。

いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分のことだけを考えている人は、人を無意識のうちに傷つけて、結局そのことで自分をも傷つけている。自分のしていること、考えていることに注意深くあれば、私たちは、混乱を抜けて新たな世界へと歩んでいけるのではないだろうか。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない ―あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
そこに、愛がある。