分離できない私と世界

時々、思う。
生命じゃないものは、存在するだろうか? 全部、生命なんじゃないだろうか? と。

“生命”という言葉をどう定義するのかは、人によって、分野によっていろいろ違うけれど、すべての根底にあるもの、あるいはすべての背後にあるものを“生命”とするならば、それはすべてのものに当てはまるのではないだろうか、と思う。

私たちの時代に生きる多くの人たちは、物質と精神とを分けているけれど、物質を創っているのは何だろう? 物質が生まれる前はどうなんだろう? と考えてみると、精神が物質を生み出している、あるいは精神の中に物質がある、という考えが浮かんでくる。すべてが、エネルギー、周波数をもっているのならば、と。
そして、物質に接しているとき、私たちに何が起きるのだろう? と考えてみると、物質が精神を生み出している。あるいは物質の中に精神がある、という考えが浮かんでくる。すべてのエネルギー、周波数がこの世界に影響を与えているのならば、と。
そうであるなら、自分と世界(宇宙)は同じで、決して分かれることはできないし、分かれたこともなかったのではないだろうか、という考えが浮かんでくる。それなのに、私たちは、ここで何をしているのだろう・・・?

平和な心と平和な世界。荒廃した心と荒廃した世界。豊かな心と豊かな世界。二つは一つ。バラバラなものはない。
自分を知ることは、世界を知ること。自分の変化は、世界の変化。世界の変化は、自分の変化。すべては繋がっている。関係のない人はいない。

「わたしたちの見る事物はね。」とピストリウスは小声で言った。「わたしたちが心の中に持っているのと、同じものなんだよ。わたしたちは心の中に持っているのよりほかには、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は、外部の映像を現実だと思って、心の中にある自分自身の世界に、ちっとも発言させないから、それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。そうやって幸福になることはできるさ。しかし一度、あのもうひとつのことを知ってしまうと、大多数の道をゆくという自由はなくなる。ジンクレエル、大多数の道は楽だが、わたしたちの道はつらいのだぞ。―さあ、行こう。」

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界がはじめに生まれたのか。意識がはじめに生まれたのか・・・。
科学が説明する世界が、人間の主観によるものならば、“世界”は、人間が生まれた後にできたのか・・・。
この世界は、宇宙の中にある。宇宙以外ものは、この世界に存在しない。それなら、やっぱり生命でないものは、ここには存在しないのだろう・・・。