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誰の物語の中にいるのだろう? 本当の望みは何だろう?

yellow03歴史家: 「私の書いた本だ。書いてしまえば、それが歴史だ。私の最新作、フランス革命の本だ。」
王子さま: 「真実なの?」
歴史家: 「(What?)」
王子さま: 「真実」
歴史家: 「・・・つづりは?」

(参考:映画「The Little Prince ―星の王子様―」スタンリー・ドーネン監督、字幕翻訳・篠原有子)

時々、思う。
私たちは、誰かがつくった物語の中にいるのだろうか? と。

私が日々思うことや考えることは、どうやってできたのだろう? はじめからあったのか、それとも後から覚えたことなのか・・・。自分ではこうだろうと考えていたことも、「○○さんはこう言ってたよ」というのを聞くと、自分の考えが揺らいでしまうのはどうしてだろう? 自分の考えに自信満々の人は、どうしてそれが本当だと分かったのだろう・・・?

永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る 心のずっと奥の方

(参考:「情熱の薔薇」 作詞・作曲:甲本ヒロト)

善悪の判断は、どうやってしているのだろう? 私たちの行いを裁くのは、私たちが作った法律。それに基づいて裁判官が判決を下す。でも、復讐や社会的制裁というかたちで裁判官以外の人々が罰を下すこともある。過剰な報道や思い込みによって人を追い込んだり、殺してしまうところまでいってしまうことも起きている。戦争になれば、人殺しが英雄になる世界だ。
死刑を下す人は、裁かれないのか? “悪い人”を懲らしめる人は、“善い人”だから? その人が自分のしたことと向き合う機会を、どうしてその人がそうゆうことをしてしまったのかを私たちが知る機会を、そして、それを知ることで私たちの生き方や社会を見つめ直す機会をバッサリ終わらせてしまうのは、本当に善いことなのだろうか。それに、自分にとって都合の悪いものは排除すればいいという考え方は、殺人者と同じ考え方なのでは・・・。

「ですが結局」 と若者は困りはてて言う。「結局、あいつは牡牛の頭なのです。怪物です、自然界の奇形です、人間を生贄として要求するものです!」
「どこから、そういうことを聞いたのですか」 と娘は穏やかたずねる。
「そうゆう噂です。みんながそう言います。王女様の御父君も。いや、あいつを産んだ御母君までもが」
「ええ、そう、昔からよくある話、いつもの」 と彼女はうんざりしてこたえる。「昔からよくある話によって、みんなは善悪の区別をしようとする。だが世界の記憶のなかでは、すべてはひとつで、必然なのです」
そして短い沈黙のあと彼女がつけ加える。「そして、もしも私たち人間がずっと前に世界の記憶をすべてなくしてしまっているとしたら、世界の記憶はすべてどこへ行くのでしょう?」

(参考:岩波書店「鏡のなかの鏡―迷宮― <30>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

これまで感動をよぶ物語は、どんなストーリーだっただろう? と考えてみる。
幸せだった日々に、突然思いがけないことが舞い込んでくる。そして、困難な状況におちいって、そこから這い上がってくる物語が多い気がする。
ヒーローが登場する物語には、どんなキャラクターが登場してくるだろう?
悪役は必須だ。そして、ヒーローは最後にその悪役をやっつけて、めでたしめでたしの物語が多い気がする。
善と悪は、互いが必要でがっしり手を繋いでいるようだ。かわいそうな人たちと救世主の関係もまた。
この物語を続けようか? それとも、別の物語を綴ろうか?

登場人物たちは、みんな同じような顔や体型で、同じような性格で、考え方も同じにしてみよう。舞台は、どこに行っても同じような土地で、変化のない日々にしてみよう。この設定で、どんな物語が書けるだろう?
ホラーなら書けそうだけど、想像できる範囲は狭くて、あんまり楽しくない感じがする。のぺっとしてダラダラして、壊れる気配も何かが生まれる気配もない。平穏かもしれないけれど、それを平和とは呼べない気がする。
じゃ、登場人物たちは、みんな個性豊かな存在たちにしてみよう。舞台も変化に富んだ場所で、いろんなことが起きる日々にしてみよう。この設定なら、どうだろう?
何だか楽しそう。創造と破壊が繰り返され、次は何が起きるだろうかとドキドキワクワクしながら想像をグングン広げて書けそうだ。ひっちゃかめっちゃかになりそうだけど、多くの学びも与えてくれそうだ。
それなら、やっぱり善と悪、かわいそうな人たちと救世主の物語を続けた方がいいのだろうか。
否・・・と、もっと別の物語があるのだと、内側から扉を叩く音がする。

問題は目覚めることだ。
(中略)
結局おれは、なにかに気づいたたったひとりの人間というわけじゃないだろう。そんなに抜け目ない人間とは、まるでちがうからな。それについてお喋りをしないと、みんなの意見がまとまったにすぎない。それともみんながしたいのは、まさにそうゆうお喋りなのか? みんなはこの夢が気にいっているのか?
(参考:岩波書店「鏡の中の鏡―迷宮― <29>」ミヒャエル・エンデ作、丘沢静也訳)

この世界の物語は、誰が書いているのだろう? その中で、私は誰を演じているのだろう?
誰かが作った物語を抜け出して、自分の物語を生きてみませんか? 生まれながらに罪を背負っているという物語を抜け出して、生命は地球にしか存在しないという物語を抜け出して、幸せな人生は一つのカタチしかないのだとする物語を抜け出してみませんか?

―それはかれの本領ではない。それどころか、そんなことは結局でどうでもいいのである。かれの本領は、任意の運命をではなく、自己独得の運命を見出すこと、そしてそれを自分の中で、完全に徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、逃れようとする試みであり、大衆の理想の中へ逃げもどるころであり、順応であり、自己の内心をおそれることである。

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界は、いつでもあなたの望みを待っています。あなたが、こちらを向いてくれるのを待っています。あなたの本当の望みは、何だったのでしょう? 何をするために、ここへ来たのでしょう?

「わたくしが望みを統べる君と呼ばれていることは、知っているでしょう。」 まろやかな声がいうのが聞こえた。「さあ、どんな望みがありますか?」
バスチアンはちょっと考えてから、おそるおそるたずねた。
「ぼく、いくつまで望みをいっていいんですか?」
「いくらでも好きなだけ。 ―多ければ多いほどいいのです、バスチアン。それだけファンタージエンが豊かに、さまざまな形になるでしょう。」
バスチアンはこの思いがけない申し出にどぎまぎしてしまった。突然無限の可能性が目の前に開けてみると、望みはかえって一つも出てこなかった。
「ぼく、わからないな。」 バスチアンはとうとういった。
しばらくしんとしていたが、やがて小鳥のようにやさしい声がいった。
「それは困りましたね。」
「どうしてですか?」
「それではファンタージエンが生まれないからです。」
バスチアンは途方にくれてだまった。すべては自分しだいだということは、無制限な自由をたのしんでいるバスチアンに少し迷惑なことだった。
「どうしてこんなに暗いんですか、月の子(モンデンキント)?」 かれはたずねた。
「始めというものは、いつも暗いのです、バスチアン。」

(参考:岩波書店「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ作、 上田 真而子、佐藤真理子訳)

私たちは、再び透明な暗闇の中に立つ。
そこに光が立ち上ったとき、私たちの新たな物語がはじまります。

 

 

わたしたちが出会う場所

flower10あなたは ゾウの背に乗って
わたしは イルカの背に乗って
何も 言わないで
何も 訊かないで
行く先は この星が知っている

あなたは ゾウの背に乗って
わたしは イルカの背に乗って
真の力が 蘇る
真の美しさが 放たれる
その時は 宇宙が教えてくれる

さあ 深く高く 今はただ この空の中で遊んでいよう

きみはまだ 縮こまったままで 震えているの?
それじゃ 夜明けのうたが 聴こえないよ
顔を上げて 握りしめた手を 開いてごらん

何も 言わないで
何も 訊かないで

ほら 聴こえるでしょう?
わたしたちは それを知っていた
ほら 見えるでしょう?
わたしたちが 出会う場所
ほら 思い出したでしょ?
ここに みんないるってこと

あなたは ゾウの背に乗って
わたしは イルカの背に乗って

さあ 深く高く 今はただ この空の中で遊んでいよう

 

 

自由へ

子どもの時 夢見たこと
今も 同じ夢に見ている
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ

(参考:「翼をください」作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦)

時々、思う。
自由とは、何だろう? 今、自由に生きているだろうか? と。

「あんまりだれかを崇拝すると、本物の自由はえられないんだぜ。そうゆうものなのさ。」

(参考:講談社「ムーミン谷の仲間たち」トーベ・ヤンソン作、山室静訳)

「自由になりたいと」言う人は、本当に自由を望んでいるのだろうか?
自由になるための方法を学ぼうとするのは、どうしてだろう? 自由について教える本や人の、そこに書かれていることだけ、その人が言っていることだけに従うことに、自由はあるだろうか?

自由は、何かによって得られるものじゃない。
自由は、自分の自由を得るために、他人の自由を奪うことじゃない。
自由とは何かを知らなければ、たとえ自由な世界になったとしても、それは苦痛になるだけかもしれない。

われわれの人生は自由な行動と不自由な行動とから成り立っている。けれども人間本性の最も純粋な現れである自由な精神に到ることなしには、「人間」という概念は究極まで理解したことにはならない。自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得るのだから。

(参考:ちくま学芸文庫「自由の哲学」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

自由は、逃げ出すことじゃなく、向き合うこと。そこで、大きな力を得る。
自由は、いつか掴むものじゃなく、誰かがくれるものじゃなく、ずっと手にしていたもの。それを知ったとき、大きな愛を得る。
自由は、孤独と責任を伴う。でもそれは、盲目的な集団意識から離れることであり、全体から切り離されるのではない。もっと深くて高いひとつの存在になること。だから、そこに寂しさや自己犠牲という突き放すようなものはない。それを体験したとき、大きな自己を得る。
自由は、限定された場所や時間の中だけのものじゃない。そこから離れたとき、大きな解放を得る。

自由は、教えられたことを覚えるんじゃなくて、自分で気づくこと。そうでなきゃ、何になるだろう?
それはいつかじゃなくて、今気づけること。だって、はじめからここにあったのだから。

翼を与え、心を燃えたたせるのは誰か
運命をも死をも恐れさせぬものは誰か
あの鎖を解き、あの堅牢な扉を
こわして外に出してくれるものは誰か
世紀、年、月、日、時
時間の娘と兵士ども ―そしてこの
館には鉄もダイヤも通用せぬ
それを可能にするものは情熱のみ
そこで私はしっかと翼をはって空中にとび立つ
水晶もガラスの壁も恐れずに
空を切って無限へと翔ける

(参考:岩波書店「無限、宇宙および諸世界について」ブルーノ著、清水純一訳)

さあ、自由を手に、どこへ行く?

 

 

決められた性別を超えた“ワタシ”というあり方

yellow02時々、思う。
どうして、性別を理由に差別をしたり、優劣をつけたりするのだろう? と。

“これからは、男性性の時代から女性性の時代になる”。という言葉をよく聞くけれど、それは単に「女性が支配するということではない」「今の社会構造のままで、男性の立ち位置が女性に変わるだけということではない」という意見に、私は賛成です。

女性が支配するというのでは、相変わらず支配する者と支配される者がいることになる。そして、女性であるというだけで、その人は優れているというのであれば、そこにも相変わらず優劣という考え方が存在していることになる。
本当に、これが新しい世界のカタチなのだろうか?
ちょっと前まで「男性の方が優れているのだから女性は引っ込んでいろ」みたいなことから、今度は「女性の方が優れているのだから男性は引っ込んでいろ」と?

100%男性性をもった男性、100%女性性をもった女性、そんな偏った人は、実際にいるだろうか?
私は、一応女性です。一応というのは、身体は女性で、性格も女性寄りって感じはするけれど、よく言われている「女性らしさ」というものをすべてもっているかと問われたら、「いいえ」と答えるだろうからです。
「女子って○○が好きだよね」と言われても、「みんながみんな、そうってわけでもないんじゃない?」と思うし、“女子会”という言葉にはゾッとするし、子どもの頃、自分のことを「ぼく」と言っていたし、「女性はこうじゃなきゃ」とか「女性の幸せはこうなること」などと限定されると、何だか嫌な気持ちになります。
「“女子力”の高い男性は、ちょっと変」みたいなのものもよくわからなくて、例えば、料理やお裁縫は、日々を生きる中で、男性でも女性でもある程度できた方が、自分だけじゃなく、人を助けたり喜ばせたりすることもできるだろうと思います。「頭がいい女性は、モテないよ」みたいな言葉もそうで、頭が良ければ(ただテストでいい点がとれるということじゃなくて)、自分だけじゃなく、人を助けたり楽しませたりすることもできるだろうと思います。

そもそも、あれこれ分類して「こうあるべきだ」の囲いを作って押し込めて、そこからはみ出したものは認めない、みたいなこと自体が、男性性のあらわれなのではないだろうか。

性同一性障害(“障害”という言葉がなくなればいいのに・・・)やLGBTという言葉、他にも新しい言葉いろいろとできているようだけれど、第3の性、Xジェンダーという言葉があるようです。

Xジェンダー:
出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。女性・男性の性別のいずれでもない性別を区分するかぎりでは、中性というあり方、無性というあり方、両性というあり方、性別という枠組みから脱するといあり方、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。

(参考:Wikipedia)

「男性とはこう」「女性とはこう」というのは、時代によっても変わっていくのに、それに従わなければいけないとすることは、とても窮屈に感じる。自分を変えてしまったり、誤解されてしまったりすることにもなるんじゃないだろうか。自分を出せなくて苦しくなったり、本当の自分ってどんなだったかも忘れてしまうことにもなってしまわないだろうか。
それよりも、自分自身と向き合い、そこで見つけた“ワタシ”というあり方である方が、ずっと自然なことではないだろうか。その方が開放的に感じる。それができれば、自分に嘘をつくことはなくなるし、相手に対しても、その人をそのままを見ることができるようになるのではないだろうか。だからといって、何も学ばなくてもいい、成長しなくてもいいということではないけれど・・・。

女性だから得意なこと、苦手なこと。男性だから得意なこと、苦手なこと。女性と男性の違いは確かにあって、それはこの世界のとらえ方や物事の考え方にも及ぶ。
でも、それに優劣をつけるのではなく、「そうゆう見方もあるんだ」と受け入れ、尊重し合えれば、「こういうことが難しいだね。それなら、ワタシにまかせて」と互いに補い合うことができれば、私たちは、もっと軽やかに日々を生きていけるんじゃないだろうか。

もしわれわれが社会的な両性存在であるとしたら、男性と女性が社会的役割において本質的に完全に同等であるとしたら、法的にも経済的にも平等で、自由においても責任においても、そして自己評価においても同等であるとしたら、社会はまったく異なったものとなるでしょう。そうなった場合にいかなる問題が現れてくるかは皆目、見当がつきません。わたしにわかるのは、ともかく問題が生じるだろうということだけです。ただその中心的な問題は、まず間違いなく、現在の問題と同じものではありますまい。現在の中心的な問題は搾取です ―女性に対する搾取、弱者に対する搾取、そして地球に対する搾取。現在の災厄的な状況の源は疎外であり、陰と陽の分離です。均衡と統合が追求される代わりに、支配への闘争が繰り広げられている。分裂が主張され、相互依存は拒絶される。現在のわれわれを破滅に落とし入れている価値の二元性― 強者/弱者、支配者/被支配者、所有者/被所有者、行使者/被行使者といった二元性― これが果たして、わたしにとって、現在から見て遥かに健全で堅固な、より期待しうる様態と思えるもの、すなわち、統合と無欠の状態への道を護ることはありうるでしょうか。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <性は必要か?>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

 

 

選択の理由

yadokariあらゆる選択が 不安や恐れや怒りから なされるのではなく
楽しさや喜びによって なされてほしい
そうすれば 未来はきっと
楽しくて喜びにあふれるものになる って想うから

不安や恐れや怒りからスタートする世界は どんどん閉じていくようで
楽しさや喜びからスタートする世界は どんどん開けていくよう
開放的な方が 気持ちがいい

共に生きる世界は 恐怖によって 支配したりされたりするのではなく
可能性によって 自由に生きる方がいい
自由であることは そこに 大きな愛があるってことだから

「これをしなければ こうなっちゃいますよ」
「こうなりたくなかったら これをしなさい」
その言葉の前にあるのは 何だろう?
その言葉の先にあるのは 何だろう?

あらゆる選択が 不安や恐れや怒りから なされるのではなく
楽しさや喜びによって なされてほしい
そうずれば 未来はきっと
楽しくて喜びにあふれるものになる って想うから