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雨のはじまるところ

sky05翼があるから 飛べないのかもしれない
飛べないと思うから 翼を創るのかもしれない
飛ぶために必要なものは 何もなかったはずなのに

目を覚ますために 眠ったのかもしれない
でも そのことさえ 忘れてしまった
自分を愛さないのに 愛してほしいと言う
でも そんなわがままさえも 愛されている
自分の存在を主張するために 対立するものを創り出す
何もなくても あなたはここにいるのに

聞こえていたのに 聞こえなくなる
でも 聞こうとしなければ また聞こえだす
ひとつだったのに ひとつになろうと 奪い合う
でも ひとつになろうとしなければ また思い出す

どこに 行くの?
どこに行ったって あなたはここにいるのに
この世界を モノクロに見ているのは 誰?
この世界を カラフルに変えるのは 誰?
あなたは 何を 見ているの?

私が はじまったところへ 戻れ
そこで 私が終わり はじまるだろう
雨の はじまるところを 探れ
そこで 私は 飛ぶだろう

 

 

全部やってあげるのは愛かな?

dolphin時々、思う。
“助ける”って、どうゆうことだろう? “応援する”って、“力になる”って、どうゆうことだろう? なんでもかんでもやってあげるのは、愛かな? と。

「こんなに、応援しているの! こんなに、尽くしているの! こんなに、愛しているの! こんなに、こんなに、私は、あなたに・・・」
そんな自分に酔っていたりして。
それでいて、自分の思い通りの反応が返ってこなかったら、怒ったりなんかして。
「こんなに、こんなに、私は、あなたを愛しているのに、どうして・・・?」

愛された方も、それに応えなくちゃと、応えられなかったらどうしようと、別のところに力を使ってしまう。
自分を相手の理想に合うようにと、別の自分を作り上げてしまう。

それはまるで、力を与えているようで、奪っているようだ。
力をもらっているようで、明け渡しているようだ。

放っておくのも、愛なんじゃないだろうか。
縛りつけるのではなく、自由に解放してあげる方がいいんじゃないだろうか。
相手が、十分“自分”でいられるように。

全部やってあげて、何になるだろう?
転んだって、そこから学ぶことは多い。
それを奪うことは、大きなチャンスを奪うことになるかもしれない。
いつでも安心して帰ってこられる場所を作っておいてあげれば、それでいいんじゃないだろうか。
力は、自分の中にあるのだから。
それに気づかせてあげるのが、愛なんじゃないかな?

「こうしてはいけない」と言われると、それをしたくなる。
「こうあるべきだ」と言われると、それをしたくなくなる。
人間は、不思議で、面白い。
じゃ、「自分の好きなようにやりなよ」と言われたら、何をする?

 

 

どうしてみんなと仲良くしてはいけないんだろう?

時々、思う。
どうして、みんなと仲良くしてはいけないんだろう? と。

私たちは、生まれてからすぐに女か男か振り分けられ、その後も国籍とか職業とか何かのグループとか、いろいろな“カタチ”を作って、振り分けるということをしている。
そして、「女はこうあるべきだ」「男はこうあるべきだ」「この国の人はこうだ」「この職業の人はこうだ」などと、その“カタチ”に合わせるように生き方までも方向づけられる。

私は、何かの“カタチ”をもった途端、それ以外の人と仲良くしていたら、それを何か悪いことのような変な目で見るのはどうしてなのだろう? と思っていました。そして、その目が嫌でした。

女は、女としか仲良くしちゃいけないの? 男は、男としか仲良くしちゃいけないの? 女と男が仲良くいるには、何かの“カタチ”がなくちゃいけないの?
年齢が違っちゃいけないの? 学校が違っちゃいけないの? 職業が違っちゃいけないの? 国が違っちゃいけないの? ルーツが違っちゃいけないの? ・・・

どうして、みんなと仲良くしてはいけないのだろう?
仲良くしたら、誰かが怒るの?
もっともっとよくみてみたら、みんな同じである場所があることに気づくのに。
同じだったら、どうして怒ることがあるだろう・・・。

仲間外れの人がいるのではなく、仲間外れを作っている人がいるんだ。
仲間外れだと思っている人も、仲間外れの人を作っているのでは・・・。
私たちは、もっと別の視点に立たなくちゃいけない。
異質なものや違うものを排除しようとすることが本能に近いものだとしても、私たちは、それを変換する力も同時に持っているのだから。

 

 

静かな革命

flower02時々、思う。
食べるもの、着るもの、行く場所、思うこと、考えること、言葉づかい・・・。私たちが行っている日々の選択や決断は、“幸せ”な未来へと繋がっているだろうか? と。

“意識の転換”。この言葉が大きく聞こえるようになってきた。私がそっちの方に意識を向けはじめたというのもあるけれど・・・。
意識が変われば、選択する事柄も変わる。それが多くの人に広がれば、世界が変わっていく。でも、これまでもずっとそうだった。誰か一人が大きな声を上げて、その日からパッと世界が変わったのではなく、その声に次々と同調していった多くの人たちがいたから、世界が変わっていったのではなかっただろうか。
ひとりひとりの意識のあり方が、とても大事なんだ。でも、私たちは、本当に自分の望む世界を選択しているだろうか・・・?

私たちはこの世界で、“幸せ”を手に入れられただろうか。
もしできているなら、どうして“癒し”を求める人がこんなに多いのだろう。苦しんでいる人がこんなにいるってことは、この社会のどこかがおかしいのではないだろうか。
「この生き方だけがすばらしい」「この生き方をすればみんながほめてくれる」「この生き方をしている人が勝ち組だ」。そんな偏った考え方を、何だかんだ言いながらもこのまま続けていく方が、“幸せ”なのだろうか・・・。

“古い時代から新しい時代へ”。この言葉もますます聞こえてくるようになってきた。
今までの世界に何の疑問も抱かず当たり前だと思っている人にとっては、新しい世界になるのかもしれない。だから、終わっていく世界の方を見て、不安や不満を感じているのかもしれない。
今までの世界に疑問を抱き居心地の悪さを感じていた人にとっては、ごく自然で当たり前の世界になっていくのだと思う。だから、蘇りつつある新しい世界の方を見て、湧き上がってくる喜びを感じているのだろう。

“新しい”のだから、“古い”ものはなくなっていく。
でも、新しい時代に必要かどうかを判断するには、まずそれを表に出さなきゃいけない。だから、社会にも個人にも、今、要らないものがどんどん出てきているのではないだろうか。
一見不安に感じるような出来事でも、私たちに大きな気づきを与え、本当に要るものと要らないものを見分けるために、私たちの意識が変わるように起きているのではないだろうか。自然界で起きていることも、「ほらほら!」と私たちの背中を押しているようにも感じる。
そうやって世界を大きな視野で見ることができたら、心はだんだん静かに穏やかになっていく。
争っている場合じゃないってこともわかるし、争いの外に出ることができる。

新しい世界は、支配ではなく、共に生きる世界。
それは“キレイ”に整頓された世界ではなく、境界のあいまいな世界。そんな世界を想像できるだろうか?
それはみんなが“癒し”を求める必要のない世界。そんな世界を考えたことはあるだろうか?

私たちも、宇宙も、生きている。
内側で外側で、絶えず生きて、変化している。
破壊と創造は同じところにあり、生と死を繰り返す。
内なる太陽と外なる太陽は、呼応し合い、共に世界を創っている。
私たちは、自由に選択できる力をもっている。“幸せ”な世界を選択できる力をもっている。

宇宙の決断。
地球の決断。
私たちの決断。
誰かじゃない。
すべては、ひとりの意識からはじまる。
私たち、ひとりひとりの意識のあり方で、この世界は創られている。
革命は、ここからはじまる。

 

 

終わりと始まりのファンファーレ

降り注ぐ 陽の光と踊ろう ラッタッター
きみの足じゃ 追いつかない
どうして 翼を使わない?

舞い落ちる 雨とうたおう ラッタッター
光と闇を 超えたなら
真の光が 放たれる

輝き返す 宇宙に見とれて ラッタッター
創り上げてきたきみを 壊したら
本当のきみが 輝きだす

終わりと始まりのファンファーレ
自分自身を 知ったなら
真の旅を はじめよう

タラッタラッター 新しい創造を 始めるの
タラッタラッター 今ここを 起点として
さあ 新しいうたを歌おう ルンタッター
さあ 新しい物語を綴ろう ポロポロリン

シャラランシャララン 世界は 真の美しさを蘇らせ
私たちは 真の強さを取り戻す

ほら 聞こえるでしょう?
世界は 変ったわ