箱の中身は何でしょう?

時々、思う。
空っぽは、存在するだろうか? 何かが生まれる前の世界には、何があったのだろう? と。

本棚から、久しぶりにSF小説を手に取りました。

「おい、聞けよ、キリール。中身の詰まった<空罐>が手に入ったら、どうする、え?」
「中身が詰まった<空罐>だと?」と訊き返して、彼は、おれがわけのわからんことでも言ったみたいに眉を寄せた。

(参考:早川書房「ストーカー」アルカジイ&ボリス・ストルガツキー著、深見弾訳)

この後、「あんたのあの液体磁気罠だよ、ほら、なんと言ったっけ・・・そう、物件77Bだ。ただし、中身は青っぽいどろっとしたものが入ってるだけだがね」と続き、それは普通に物質が入っている缶だったわけですが、この“中身の詰まった<空罐>”という表現は、とても好きです。

そういえば・・・。と、本棚からもう一冊取り出して、あれはどこだっけ? とページをめくります。

娘のキャロラインが三歳の時のこと、小さな手に小さな木箱を持ってやってきて、「コンナカニナニガハイッテイルカ、アテテゴラン!」という。わたしは、ケムシ、ネズミ、ゾウなど、つぎつぎに挙げた。しかし娘は頭を振り、得もいえぬ、凄味のきいた笑みを浮かべ、手にした箱をほんの少し、中が窺けるだけ開けてみせていわく、「マックラケ」

(参考:ハヤカワ文庫「風の十二方位 <暗闇の箱>」アーシュラ・K・ル・グイン著、佐藤高子訳)

何度読んでもニヤニヤしてしまいます。お決まりの反応をするだけになってしまった大人に、パッと別の世界を明かしてくれる子供のこういった行動や発想は、とても好きです。

箱と言えば・・・。と、別の本を手に取って。

シュレディンガーの猫の思考実験についていえば、箱のなかの猫が「生きている」と、「死んでいる」という二つの可能性が共存しているのは、箱の外にいる誰かにとってである。猫の視点では、現実はひとつしかない。

(参考:日経BP社「世界でもっとも美しい量子物理の物語 ―量子のモーメント」ロバート・P・クリース/アルフレッド・シャーフ・ゴールドハーバー著)

箱を開ける前の猫のΨ関数には、二つの可能性 ―猫が生きている可能性と死んでいる可能性― が重ね合わされているが、その様子は、背景から切り離されたアヒルウサギの絵と似ている。背景を与えること ―アヒルウサギを世界の「中へ」運び込むこと― は、観測や実験を行うことに似ている。アヒルウサギの絵が、人間の知覚にとって曖昧でないひとつの対象物に変化することは、波動関数の「収束」と似ている。このプロセスは、それほど摩訶不思議ではない。摩訶不思議になるのは、元の絵について、「これは何なのか?」と尋ね、背景のなかの知覚対象としてそれを捉えるときと同じような答えを要求するときだけだ。(中略)科学は予測機械のようなものだ。予測できるだけの十分な情報がないとき、科学は現状でわかっていることだけで、とりあえず終わりにする。シュレディンガーの猫には、そのような状況が表れているのである。

(参考:日経BP社「世界でもっとも美しい量子物理の物語 ―量子のモーメント」ロバート・P・クリース/アルフレッド・シャーフ・ゴールドハーバー著)

ニュートン的世界から量子的世界へ。
私たちの未来を決めているのは、誰だろう・・・?

箱を開けるとき、この中には何が入っているんだろう?(事前に知っていたとしても)と、想像してみる。
扉を開けるとき、この向こうにはどんな世界が広がっているのだろう?(毎日開けている扉だとしても)と、想像してみる。
あるいは、朝起きたら自分の身体が・・・虫になっている。そんなカフカの小説みたいになってしまうのは遠慮したいけれど、寝る前に明日はどんな自分でいるだろう?(別人になることはないとわかっているとしても)と、想像してみる。
そんなことするのは、面倒くさいだろうか? いや、馬鹿馬鹿しいって思うだろうか? そうじゃなくて、時間がない? ・・・本当に?

世界を狭くしてしまったのは、自分の想像力の放棄なんじゃないだろうか、と思う。自分で考えることを止めて、誰かが考えた世界に乗っかるだけになってしまっていないだろうか。
再び豊かな世界を取り戻すのは、やっぱり一人一人の豊かな想像力なのだと思う。
日々の当たり前になってしまった世界も、もっと丁寧に見てみれば、もっと違った世界が見えてくるはず。

さて、空っぽは、存在するだろうか?
それを、私はどうやって知ることができるだろう・・・。