必要なことだけを

sun時々、思う。
この世界を動かしているのは、どんな力なのだろう? と。

旅行に行ってきた人に見せてもらったパンフレットの片隅に、こんな言葉があった。

DOING NOTHING IS DOING ALL

(参考:「倉敷珈琲館」パンフレット)

行動をすることが、世界を動かす全てじゃない。

そこに、エゴが入っていたらどうなるだろう?
自分が善いことだと思ったことでも、別の人にとっては善いことではないこともある。人間にとって善いことだと思ったことでも、地球にとっては善いことではないこともある。

何もしないことが、世界を動かすこともある。

世界が、世界自身で世界を動かす。
それによって、それぞれの治まるべきところに治まることができるのではないだろうか、と思うことがある。
地球が望むようにやらせてあげればいいじゃないか、と必死に抗おうとしている人たちを見かけると、そう思うことがある。
世界の真の目的を、誰が知ることができるだろう・・・。
私たちは、自然が日々教えてくれていることに、もっと耳を傾けなければいけないんじゃないだろうか。私たちは、完璧じゃない。それを常にわかっていることも、とても大事なんじゃないだろうか、と思う。

エゴと、本当の意志を見極めなければいけない。
この世界と共に生きているはずの私たちは、ここで何をしているのだろう・・・?

「いいかね、アレン、何かするということは、簡単に石ころでも拾って、投げて、あたるかそれるかして、それでおしまい、などと、そんな、若い者が考えるようなわけにはいかないんだ。石が拾い上げられれば、大地はそのぶん軽くなる。石を持った手はそれだけ重くなる。石が投げられれば星の運行はそれに応え、石がぶつかったり、落ちたりたりしたところでは、森羅万象、変化が起きる。何をしても、全体の均衡にかかわってくるんだ。一方、風も海も、水や大地や光の力も、それから、けものや緑の草木も、すべてこれらのなすことは首尾よく、正しく行なわれている。いっさいは均衡を崩さぬ範囲でな。暴風や巨大なクジラの潜水に始まり、枯葉が舞い落ちたり、ブヨが飛んだりするのまで、こうしたものは何ひとつ全体の均衡を崩したりはしないんだ。ところが、わしらときたら、今いる世界や、人間同士たがいを支配する力を持っており、そうである限りわしらは、木の葉やクジラや風がその本性にのっとって、ごくごく自然にやっていることを、その気になって学ばなければならない。わしらはどうしたら均衡が保たれるか、それを学ばなければならないのだよ。知性があるのなら、あるように行動しなければ。選択が許されているのなら、それなりの責任を持って行動しなければ。ほめたり、罰したり、そりゃ、このわしにその力がないわけではないが、しかし、そんなことをして人間の運命をいじくりまわすなんて、このわしがいったい何者だと言うんだね。」
「だけど、それなら、」 若者は星空をにらんで言った。「その均衡というのは、何もしないでいれば保たれるというのですか。必要なら、たとえその行為の結果のすべてを予測できなくても、人は踏みきってやってしまわなければならないのではありませんか?」
「心配するな。人間にとっては、何かをすることのほうが何もしないでいることより、ずっと容易なんだ。わしらはいいことも悪いこともし続けるだろう。・・・・・しかし、もしも昔のように、また王があらわれて、大賢人の意見を求め、このわしがその大賢人だったら、わしはこう言うつもりだ。『殿よ、何もなさいますな。そうすることがよきことと思われますゆえ。殿がなさらねばならぬこと、それしか道がないこと、ただそれだけをなさいますように。』・・・・・。」
(中略)
アレンは敬愛と、畏怖の念を抱いて大賢人をながめ、(この方は自分などの手の届かないところにおられる)と思った。ところが、じっと大賢人の顔を見つめているうちに、アレンはじっと、その顔を照らすものが、人間の顔をしわまでも消してくまなく照らすあの冷たい魔法の光ではなく、自然界の光そのものであることに気がついた。夜が明けたのだ。朝の日の光が今あまねくあたりを照らし始めたのだ。大賢人の力より、さらに偉大な力があったのだ。

(参考:岩波書店「さいはての島へ ゲド戦記Ⅲ」ル=グウィン作、清水真砂子訳)