仕事は遊ぶこと、自由な遊びをしよう、いろいろ観察してみよう(1)

whitebirdモビールを作る。
天井から吊すと、ゆらゆら左右に揺れながら、ゆっくりと全体で回転していく。
左と右、闇と光、静と動、男と女、生と死、あなたとわたし、わたしと世界・・・。二つがバランスを取りながら、一つの中心をもって大きく回転している。片方だけじゃ成り立たない。
この世界は、きっと・・・。

そこにリュースター(サンキャッチャー)をつける。
キラキラと太陽光を反射して、部屋の壁に虹色を映し出す。
どうやって、見えない色がわかるのだろう? それは、光が物質に当たって反射したものをこの目で見ているから。全部反射したものが白色で、全部吸収したものが黒色に見える。そして、光の屈折の角度によっていろいろな色を見る。でも、私たちが見ているのは、白色と黒色、虹色の可視光とよばれる範囲だけ。100%光を反射する“本当の白”、100%光を吸収する“本当の黒”は、この目ではつかめない。
虹色の外側には、何があるのだろう? 紫外線や赤外線は、シミやシワができたり熱を感じたりすることでその存在を知ることはできるけれど、この目で見ることはできない。
私たちが見ているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには見えない色を見る昆虫たちは、どんな世界を見ているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

窓の外で、鳥が鳴いている。
この音は、どうして聞こえるのだろう? それは空気が振動して、それを私たちの耳がとらえているから。音にも私たちが感知できる範囲、可聴域というものがある。
私たちが聞いているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには聞こえない音を聞くイルカたちは、何を話しているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

振動という言葉が出てきたけれど、光も振動している。物質も私たちも振動している。その周波数の違いによって、聞こえる音、見える色、形が違ってくる。この世界を創るものだ。
それが生まれる前は、どうだったのだろう? それが消えた後は、どうなるのだろう?
私たちにはとらえられないものがある。
この世界は、きっと・・・。

子供の頃に遊んだ、ぐるぐる定規(スピログラフ)もやってみる。
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、幾何学模様。ぐるぐるぐるぐる、花のよう。ぐるぐるぐるぐる、銀河みたい。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、何だかみんな、とても似ているな・・・。
この世界は、きっと・・・。

“子供の仕事は遊ぶこと”。という言葉がある。
大人は、どうして遊びと仕事をきっちり分けたがるのだろう? 遊びを悪いものや幼稚なもの、劣っていることや役に立たないこととするのだろう? “真剣な遊び”があるのに・・・。
芸術家は、遊んでいるのか? そう、“真剣な遊び”をしています。

遊ぶことは、想像力を使う。

単純な形の積み木遊びの中で、子供たちは物語をつくる。
丸い積み木は、太陽、月、池、優しい人・・・。四角い積み木は、車、船、机、頑固な人・・・。三角の積み木は、山、木、帽子、意地悪な人・・・。
今度は、組み合わせて家をつくる、お城をつくる、街をつくる、森をつくる、惑星をつくる。王子さまにお姫さま、魔法使いに妖精たち、トリックスターの案内人・・・。
ゴゴゴゴーッ。風が唸るよ。バサバサバサッ。雨が降ってきた。ピカッ、ゴロゴロゴロ。雷も。キャー、大変! どうしよう。ほら、あそこに明かりが見えるよ! 山小屋だ。あそこに行こう! ・・・。さてさて、どんな物語になるだろう?
「いつまで遊んでるの! はやく片づけて勉強しなさい! 悪い大人になっちゃうわよ!」
ママの一撃で空想の世界は終わり。“現実”とされる決められた生き方に従うように要求される。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

泥んこ遊び、楽しいな。
ややっ、カエルさん。ややっ、トンボさん。きれいなお色をしてるのね。
ねえねえ、お団子つくったよ。こっちはあんこが入ったお団子でね、こっちはねえ・・・。
「やだっ! こんなに汚して! キャーッ、カエルなんて触って気持ち悪い! 何を言ってるの! さあ、もう帰るわよ。パパに叱ってもらいましょう。」
ママの一撃で世界から切り離される。“きれい”とされる清潔で整頓された環境に押し込まれる。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

内なる想像が、外への創造に繋がる。豊かな想像が、豊かな世界を創造する。それなのに、その想像力を抑えつけてしまったら、一体何が創造されるだろう・・・。
はたして、今のこの現実とされている世界は、すばらしい世界になっているだろうか?
子供たちは、遊びの中で多くのことを学ぶ。そして、内なる世界と外の世界を十分に遊んだ子供は、とても豊かな大人になるのではないだろうか。そして、そんな彼らが創っていく世界は、とても豊かな世界になるんじゃないだろうか。
子供たちを安全・安心という名の檻の中に閉じこめるのは、本当に、安全・安心なことなのだろうか?

“イマジネーション”と言うとき、わたしが言っているのは、知的感覚的な精神の自由な遊び(フリー・プレイ)のことです。あそび(プレイ)とは、リクリエーション=再創造(リ・クリエーション)、つまり既知のものを組み合わせて新たなものを作り出すこと。自由(フリー)とは、それが目先の実益に執着しない自発的な行為であることを指します。だからといってしかし、これはその自由な遊びが目的を欠いているということではありません。むしろ、なにを目指すかはとても大切な問題です。子どものやる“ごっこ遊び”は明らかに大人の情緒や行動の手習いとなるものです。あそびを知らぬ子どもは大人にもなれません。他方、大人の心の自由な産物が、『戦争と平和』だったり相対性理論だったりするのです。つまるところ、自由は野放しとはちがいます。想像力(イマジネーション)の鍛錬は科学にとっても芸術にとっても不可欠な技巧であり、方法であります。
(中略)
いくつかの能力のなかでも、究極的に言って、イマジネーションとは最も深く、人間的な力のひとつではないかと思うのです。司書として、教師として、親として、作家として、いえ単にひとりの大人として、わたくしたちの子どもの内なるイマジネーションの力を助力し、最上の ―吸収できるかぎり最も純粋で良質の養分を与えてやることによって、それがすくすくと伸び育ち、やがて月桂樹のようにみごとな緑をおいしげらせるようにしてやるのは、わたくしたち大人の心たのしい義務でもあります。そうして、いかなる場合にもけっして、それを抑えつけたり、あざわらったり、子どもっぽいだの男らしくないだのウソの話じゃないかなどと言ってはなりません。
なぜならば、言うまでもなくファンタジーは真実だからです。<事実>ではありません。でも<真実>なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々を生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているからです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <アメリカ人はなぜ竜がこわいか>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

世界の秘密は、隠されることなく、いつでもどこでも、今ここにある。
それを見ないようにしてしまったのは、誰だろう?