この世界について」タグアーカイブ

私たちはまだ知らない

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

最初の人は 誰だったのか
その人は 何を想ったのか

暗闇に灯る 黄金の砂粒
鯨がうたう 森の中
きみの瞳が 世界を紡ぐ

最初の人は 僕らだった
僕らが それを 望んだから

瞳に明かされる 空のうた
きみが 目を閉じ
世界が 目を覚ます

私たちは まだ 何も知らない
世界は まだ 何も決まっていない

否 わたしは 知っている
否 わたしは 知りたい

わたしと私たちときみと僕らの 透明な世界の物語

 

 

“無”

“無” を恐れる人
“無” を恐れない人
“無” を前にして上げる声は
悲鳴か あるいは 歓喜か

“無” を恐ろしい怪物と描く人
“無” を穏やかな母性と描く人
“無” を前にして感じる鼓動は
早鐘のようか あるいは 凪のようか

静寂を 恐れる人
沈黙に 耐えられない人
何もしないことに 苛立つ人
そうではない 人もいる
無感動でも 無気力なのでもなく
その人の全てで それらを恐れない人がいる

“無” を無と捉える人
“無” を有と捉える人
“無” を前にしてとる行動は
拒絶し逃げ出すか あるいは 留まり溶け合うか

“無” とは何か それに答えがあるのなら
“無” は有る といことだろうか
“無” とは何か それを恐れるのなら
“無” は有る ということだろうか
“無” の中に入ったら そこで何を見るだろう
そこで 何を聞き 何を感じるだろう

“無” は 終わりか 始まりか
“無” は墓場か 故郷か それとも・・・

今 “無” を恐れる人たちが 世界中で猛威をふるっている
“無” を恐れない人たちも 世界中で猛威をふるっている
そして “真の無” を知る人たちが 目を覚ましている

 

 

伝えたいのに伝えられないこの世界

言葉のない世界で どう伝えればいいだろう?
この色
この香り
この感触
ほら これだよ

言葉のない世界で どう伝えればいいだろう?
この道
この仕草
この声音
ほら こうだよ

言葉のない世界で どう伝えればいいだろう?
世界は 変わった
言葉で語れる世界は 終わり
言葉で語れない世界が ここにある
でも これを どう伝えればいいのだろう?

同じ眼差しで この世界を見たならば
同じ呼吸で この世界にあったならば
言葉で語れないこの世界を 共有できるかもしれない

否 これまでも そうだったんだ
だから 安心して 歩いていこう
さあ また 創造を始めよう

 

 

宇宙から地球を見てみたら・・・

flower30フラーは、「上」「下」という方位づけは地球上でしか有効でないという。宇宙で有効な方向づけは「内側に」「外側に」でしかないだろうという。そして、対談の合間に、即興の詩をサラサラと走り書きし、それが番組が終わった後でシュワイカートに渡した。シュワイカートはそれを今でも大切に持っているというが、次のような詩である。

それぞれの人にとって環境とは
「私を除いて存在する全て」
であるにちがいない。
それに対して宇宙は、
「私を含んで存在する全て」
であるにちがいない。
環境と宇宙の間のたった一つのちがいは、私・・・・・
見る人、為す人、考える人、愛する人、受ける人である私

(参考:中央公論社「宇宙からの帰還」立花隆著)

時々、思う。
私たちはみんな地球人なんだと認識したら、地球上での争いはなくなるのだろうか? と。
敵がいた方がいい人たちは、今度は地球の外に敵を探すようになるかもしれないけれど・・・。

NASAの宇宙飛行士に、宇宙へ行って何を感じたのかをインタビューした内容をまとめた「宇宙からの帰還」という本を読みました。
時代はスペースシャトルが飛び始める頃で、宇宙飛行士になる人はエリート軍人で、NASAの職員や研究員も理系の科学者やエンジニアだったためか、地球に帰還した後の聞き取りはテクニカルな事ばかりで、精神的なことへの関心はなかったそうです。宇宙飛行士同士の間でも、心の深いところまでの話はしたことがなかったとか。
時代背景は一昔前の出来事かもしれないけれど、宇宙飛行士の精神的な面から見た宇宙や地球に対する言葉は、今の私たちもまだ耳を傾けなければいけないことだと感じました。はたして、私たちはこの頃よりも成長・成熟しているだろうか・・・?

「眼下に地球を見ているとね、いま現に、このどこかで人間と人間が領土や、イデオロギーのために血を流し合っているというのが、ほんとに信じられないくらいバカげていると思えてくる。いや、ほんとにバカげている。声をたてて笑い出したくなるほどそれはバカなことなんだ」
(中略)
・・・宇宙からは、マイナーなものは見えず、本質が見える。表面的なちがいはみんなけしとんで同じものに見える。相違は現象で、本質は同一性である。地表でちがう所を見れば、なるほどちがう所はちがうと思うのに対して、宇宙からちがう所を見ると、なるほどちがう所も同じだと思う。人間も、地球上に住んでいる人間は、民族はちがうかもしれないが、同じホモ・サピエンスという種に属するものではないかと感じる。対立、抗争というのは、すべて何らかのちがいを前提としたもので、同じものの間には争いがないはずだ。同じだという認識が足りないから争いが起こる」

(参考:中央公論社「宇宙からの帰還」立花隆著)

今、自分の目が見ているものだけが世界のすべてではないことを知るこということは、とても大事なことなのではないだろうか。短絡的に物事を決めたりせず、いろんな角度から見て、より高く深く見てみることができれば、これまでとは全く違う景色が見えてくる。それには、静かに穏やかになることが必要です。争いばかりしていては、見えてこない。
宇宙飛行士の方々は、ミッションをこなしている間は目の前のことだけで忙しすぎて、何かを考えるという余裕もなかったけれど、ふとできた何もやることがない自分だけの時間に、宇宙を眺め、地球を眺めたときに、これまでの意識が大きく変わったことを経験したそうです。
私たちも、ふとした時に、急に問題の全体が見えて解決策を思いついたりするということは多いのではないだろうか。

また、同じ宇宙空間の中でも地球の軌道上でグルグル地球の周りを回っているのと、地球の軌道を離れるという経験は、全然違うのだそうです。
私は経験できませんが、想像してみました。
地球の軌道上ではまだ地球と繋がっていて、楽しく遊んでいるような感覚でいられそうだけれど、軌道から離れた瞬間、親しい人と手を放して、急に知らない土地に放り出されてしまったような寂しさと不安を感じ、そうやって月の軌道からも離れていったら、今度は果てしない解放感と同時に大きな何かに包まれていくようなあたたかい安心を感じがしました。

本の中には、もし宇宙飛行士に詩人を選んだら。という箇所もありました。本当に実現したら、彼は何を書くのか・・・。とても興味がわきましたが、本当の詩人であれば、物質的に宇宙に行かなくても、今この瞬間に彼は“それ”を見るだろうとも思いました。

「宇宙船の窓から見ていると、ものすごいスピードで地球が目の前を回転していく。何しろ九十分でひとまわりしてしまうのだ。いまキリストが生まれたところを通りすぎたと思ったら、すぐにブッダが生まれたところにさしかかっている。国と同じくらい多くの宗教や教派がある。どの宗教も、宇宙から見ると、ローカルな宗教なのだ。それぞれの地域が、これこそ我々の精神的指導者、指導原理とあおぐものを持っているが、それはそれぞれの地域ではもっともらしく見えても、宇宙から見ると、それがほんとの普遍的精神的指導者、指導原理であるなら、そんなに地域地域でバラバラのはずがないと思えてくる。何かもっとローカリティを抜きにした共通のものがあるはずだと思えてくる。
(中略)
「あるとき、ある場所がカオスに満ちているように見えるとうことはあるだろう。しかし、それはいずれ解消するカオスだ。あるいは全体を見通してみると、カオスと見えたものが実はカオスではなく、全体のハーモニーの一部であるのかもしれない。つまり、カオスは時間的にか、空間的にか、いずれにしろ部分的にのみ存在するものだと思う。」

(参考:中央公論社「宇宙からの帰還」立花隆著)

 

 

世界に不安を抱くあなたへ

one cloud「核シェルターをつくるのは物質的な人間のやることだ。心の中に平和をすでに持っている人は、大生命の避難所の中にいる。悪には避難所はない。イデオロギーによる世界の分裂に加担しないものは、黒人であれ、白人であれ、赤色人であれ、黄色人であれ、次の世界に生を受けることができる。彼らはみな一つ、兄弟なのだ」

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)

時々、思う。
生き残るとは、どうゆうことだろう? と。

荒れる気候に、荒れる人間、世界はどうなってしまうのだろうと恐怖に近いほどの不安を感じ、それを回避するために、浅い呼吸のまま動き回っている人がいる。自分も荒れているということに気づかずに・・・。
頑丈な建物を立てて、たくさんの食料をため込んで、一歩も外に出なければ、私たちは生き残ることができるだろうか? 想像してみる。果たして・・・
頑丈な建物の中で、十分なモノがそろっていて、十分な食事ができても、心が病めば身体は死へと向かうし、ひとりじめしようとする人たちはきっと出てくるだろうし、気に入らない相手がいたら殺し合いが起きるかもしれない。でも、私たちには理性と創造力があるから、それでも何とか工夫してやっていけるかもしれない。でも、太陽の陽に当たらずに生きられるだろうか。人工の太陽を作る? 人工光で野菜を作る時代だし。いや、いっそのこと地球外に脱出する? そんな計画も実際にあるようだし・・・。
でも、そもそもそれを“生きる”と言えるだろうか? それは何だかとても身勝手で無責任のような気がする。私たちは地球にいるのに、その地球に背を向けてまで生き延びようとするのは、どうなんだろう・・・?

自然は敵ではないはず。全体を見ない思い込みだけで動く人間の方が、私は恐い。
自然の脅威には勝てない、と言うけれど、そもそも自然に勝ち負けはないし、自然はすべてを死なせるほどのことはしていない。台風を嫌がるけれど、サンゴにとってはありがたいことだし、大雪は大変だけど、土は栄養たっぷりになって、おいしいお米を作ることができる。それは死と同時に新たな生を生み、循環する大きな生命体のよう。
私たちはどうだろう? 私たちは、すべてを死に至らしめるほどの科学技術をすでに手にしている。それは使えば再生不可能なものを生み出し、何にも繋がるものはなく、輪は回転を止めてしまう。流れが止まれば、後は腐っていくだけだ。私たちは、どうして自ら循環しない死を選んでいるのだろう? 私たちが生き残るためだと言いながら・・・。

自分たちが世界を動かしていると思っている人たちを見ていると、とても怖いことをしているな、と感じることがある。でも、そんな彼らは私たちに何を見せてくれているのだろう? と考えてみる。
彼らがそうすることで、私たちは「もう彼らには任せられない。私たち一人一人がしっかり自分の足で立たなければ!」と思うようになるかもしれない、という考えが浮かぶ。

私たちがやることは、彼らを負かすことではないはず。本当の力がどこにあるのか、本当に世界を動かしているのは誰なのかを思い出すことなのではないだろうか。
私たちが力を取り戻したとき、きっと世界は一変するはず。
否、もうそれはすでにはじまっている。世界のあちこちで。まだニュースには取り上げられていないところ、世界は終わると言っている人たちが目を向けないところではじまっている。
ちゃんと目を開けて自分の足で歩んでいる人たちは、いつの時代にもいた。あれこれ言われながらも、あるいは命がけで繋いできてくれた人たち。そして、私たちの時代にもそれを繋いでいこうとしている人たちはいる。多くの人が、こちらを向いてくれるのを願いながら。

人間が誕生した当初、頭頂にはコパピ(開き戸)と呼ばれる柔らかい部分があった。人間はここを通して生命を受け、創造主と交わったのである。赤い光タウラバの時代、創造の最後の段階で、柔らかい点は固まり閉ざされてしまった。これは人間が死ぬときまで閉じたままであり、死に至って生命が飛び立つために開かれる。
(中略)
「お前たちはある場所へ行く。コパピがお前たちを導くだろう。内なる知恵は、ある光景を示すだろう。それは昼は特定の雲、夜は特定の星となってお前たちを導く。何ももたずに行け。雲が止まり星が止まったとき、お前たちの旅は終わる。」こうして選ばれた人々は第一の世界のあちこちで住み慣れた土地を捨て、昼は雲、夜は星に導かれて旅を始めた。他の人々は「どこへ行くのか」と尋ね、「雲も星もみえないぞ」と言って彼らを嘲笑った。彼らのコパピは頑なに閉ざされ、内なる視界を失ってしまったのである。

(参考:平凡社新書「インディアンの夢のあと 北米大陸に神話と遺跡を訪ねて」徳井いつこ著)

私は何か起きたとき、静かに耳を澄ます。そうすると、心の落ちつきと同時に視界がクリアに広がっていき、やるべき事や行くべき場所を知ることができる。そして、それに疑わずについていくと、つまずくことなく歩いていける。
自分で選んだ道を行けば、他人から見たら失敗だと思われるようなことでも、その先に行った時、もっと大きな視点から見ることができるようになった時には、それは失敗ではなかったことがわかる。そして、あっちこっちから聞こえてくる情報や噂話に振り回されることもなくなり、誰かが作り出した幻想も、自分で作り出した幻想も消えていく。

扉を閉ざすのは、不安や怒り、独りよがりの欲望。そこは閉ざされていて、繋がれるものが何もない。
扉を開けるのは、平和であること。ただ、それだけ。そこは透明な風が吹き、大きな生命と繋がっている。
不安を抱くのは、繋がっていないから。いや、ずっと繋がっているのに、それを忘れてしまっているから。
小さな世界を飛び出して、大きな視点で世界を生きてみませんか?
それは、すでに始まっています。この地球と共に。この宇宙と共に。
壊れていく世界に目を向けるのではなく、創られている世界に目を向けてみませんか?
そのとき、大きな風と共に、新しい世界があなたの目の前にやってくる。そして、グッと背中を押してくれるでしょう。

あなた方は、地球そのものにこれを読みとることができる。前の世界にあった植物が、種子として発芽し始めているのだ。それを読みとれるほどの目があれば、新しい植物学を開けるだろう。同じ種類の種子は天の星々にも植えられつつある。同じ種子がわれわれの心の中に植えられようとしている。このすべては一つであり、あなた方がそれをどう見極めるかにかかっている。これが、次の第五の世界への出現を作るのだ。

(参考:徳間書店「ホピ 宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著、林陽訳)