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故郷の感覚

lotus01時々、思う。
この目に映るもの、この耳に届くもの、この身に伝わるもの。それは、植物、動物、鉱物、大地、山、川、森、海、空、風、雨、雲、マグマ、星、惑星、銀河・・・。これらは一体何だろう? と。

この世界にあらわれているものは、みんな違って見える。でも、もっとよく見てよく観察してみると、見えてくるものがある。それは、観ることの限界を超えた先に見えてくる。
それを神と呼ぶ人もいる。それを生命と呼ぶ人もいる。それを故郷と呼ぶ人もいる。それは私たちのなかにもある。私たち自身も、それだ。

学術的なことを知らなくても、自然の中に入った時、どんなことを感じるだろう? 動物に触れたときは、どんな感じがするだろう?
解放と安心を自分の全部で感じるだろうか。それとも、恐怖を感じるだろうか。その圧倒的な強さゆえに。膨大な生命の多様性と、それがここにあるということに。そして、失ったものの大きさに。

“世界の中心は自分の中にある”。よく聞く言葉だけれど、一歩間違えれば自己中心的な人になってしまう。でも、自分が地球にいることを、そして宇宙の中にいることをしっかりと感じることができていれば、身勝手なことはできないし、オレ様面はなんてつまらなくてダサいことだと思うのではないだろうか。
自己中心的な人は、とても弱く見える。大声を上げているのを見ると、どうしてそんなにおびえているのだろうと感じる。柔軟性がなく、強い風が吹いたらポキッと折れてしまいそう。
全体と中心を知っている人は、とても穏やかでユーモアを言えるほどの余裕があって、そのしなやかさで、強い風が吹いても動じない、おだやかな強さを感じる。
大地の上に立ったとき、自分の中心を感じながら東西南北を意識すると、身体の内の奥深くから、“私はここにいる”という感覚がグッと湧き上がり、そこから一気に自分が世界へと広がっていくのを感じる。そして、底知れない安心感と勇気が満ちてくる。
その感覚でいれば、どこにいても迷うことはなくなり、世界が混乱しているようにみえる中にあっても、振り回されることなく淡々と歩み続けることができて、トラブルが起きても、落ち着いて対応できるようになれるのではないだろうか。

世界の中で、ある力が動き出す。
それを誰が知ることができるだろう? でも、その力を自分の中で感じることができる。
エネルギーが生まれ、周波数ができ、カタチに成る。
私たちは、それを体験する。そして、それを見ているものに気づく。

生命の呼吸を感じるだろうか? 生命の鼓動を感じるだろうか?
吸って吐いて、ドクンドクン、拡大と収縮を繰り返し、行っては帰り、破壊と再生、生と死を繰り返す、一つの生命。
私もあなたも、共に呼吸し鼓動する、一つの生命の一部であり、世界そのもの。

この世界は、生命であふれている。
なんて、豊かなんだろう! なんて、力強いのだろう!
孤独なことがあるだろうか? 小さな自分にかまうことがあるだろうか?
みんな一つの同じ生命なんだ。一つなのだから、そこには対立するものはない。

決めつけることなく、ただそれがあるままにあるようにあれば見えてくる。それがクルッとこちらを向いて世界の秘密を教えてくれる。そして、私たちの“故郷”が甦る。

新たな世界が明けそめ
太陽のまばゆい光さえ翳らせて
苔むす廃墟からは
不思議な未来がほのかに光る
これまでありきたりだったものが
いまは珍しく不思議なものに見えてくる。
<全のなかの一、一のなかの全
草や石に記された神の御姿
人間や禽獣にやどる神の御霊
それこそ心に留めねばならない
もはや時空にしばられた秩序はなく
いまや過去のなかに未来が現れる>
(中略)
あの大いなる世界の心情が
いたるところで蠢きだし、とこしえに花と咲く。
万物がたがいにうまくからみ合い
つぎつぎと育って熟していく ―
それぞれに一は全と混じりあい
むさぼるように奥深くまで潜みいり
自分独自の本性をよみがえらせ
新たな想念をいくつも得て
全のなかに姿を映す。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集2」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

 

 

宇宙の色は色とりどり

flower08時々、思う。
どうして、みんな同じでなくちゃいけないのだろう? と。

“ひとつになろう” その言葉は、私たちがどうなろうと言っているのだろうか?
それは「これが正しいことだ」と誰かが言ったら、あっちの人もこっちの人もみんな同じ道を行き、同じ言葉を使い、「いや、それは正しくない。こっちが正しいんだ」とまた誰かが言えば、クルッと反転。あっちの人もこっちの人もみんな同じ道を行き、同じ言葉を使う、ということだろうか。
“同じもの”の囲いは、見た目が変わるだけで、結局同じことの繰り返し。従わないものは従わせるように抑えつけ、外見や思想の違う人たちは排除する。
これが、私たちが目指している“ひとつになる”ということだろうか・・・。

一色だけの世界は、つまらない。

私たちは、“元々ひとつで同じ”だとしたらどうだろう? ひとりひとりどんなに違っていても、元はひとつで同じなんだ、と。
思考や行動、その選択と決定権は個々の存在の数だけある。もし、誰かが自分と違う選択をとしたとしても、それはそれ。無理矢理「こっちだ!」とすることもしない。むしろ、“違う”ということから学ぶことは多い。自分がまだ知らなかった世界の存在を知ることもできるし、自分がどうゆう人なのかに気づくこともできる。
“ひとつになろう”とするのではなく、“ひとつである”ということがわかれば、互いの違いを自然と受け入れられ、争う必要もないことがわかる。“同じもの”の囲いはなく、“元々同じである”という帰る場所があるだけだ。
これが、私たちが目指していることではないだろうか。

でも、それはみんなはじめから知っていたことではなかっただろうか、とも思う。
ただ、いつ誰が作ったのかわからないルールだけど、それに従わなきゃいけないんだって、それが正しいことなんだって、そう思い込んでいるだけで。
でも、それも必要なことだったのかもしれない。
だって、光を見るためには、闇に持っていかなければいけないから。目覚めるためには、眠らなきゃいけないから。完全を知るためには不完全である必要があるから。そして、両方を見ることが出来たとき、大きな気づきと変革が起きるから。

色とりどりの世界は、楽しい。

でも、自分を変えてまで、人と違くなろうとするのは違う。
個性は、作るものじゃなくて、初めからあるものだから。新たに付け足すものではなく、引き出すものだから。そして、比べることでもない。それぞれの旅をするために必要なものであるだけなのだから。
そこに、本当の自由と平等がある。ひとりひとりが違うから、得意なこと、情熱を傾けるものが違うから、こうして世界は回っている。だから、学歴や職業によって優劣をつけるなん、何だかおかしなことのように思う。多様な人々がいるから、私たちの社会にもいろいろなものが生み出され、その多才な世界は色とりどりに輝き回っていく。
みんな同じだったら、世界は止まってしまう。

さあ、思い出そう。
本当の“個”を知ると、本当の“全”を知る。
“個”をなくした“全”ではなく、“全”の中に“個”があり、“個”の中に“全”をみる。
私たちは宇宙そのもの。
離れ離れになったことなどないし、これからも離れ離れになることはない。
ひとつだから、ひとりじゃない。色とりどりに輝く、透明な一つの生命。
“すべて”が美しくて、愛おしい。

みんなの本当の色は、何色だろう?
その色を生かすには、どうしたらいいだろう?
それをみつけられたら、私たちは、きっともっとやさしくなれる。

ムーミン谷のみんなに聞いてみよう。

 

 

約束の地へ

flower06青い鳥は 約束の地で うたっているよ
これまでも 今も これからも

繋げなかった あの手も
届かなかった この声も
みんな ここへ 導いてくれていたんだね

旅のはじまりは 帰還のはじまり

私を 送り出したのは 誰だろう?
私を 待っているのは 誰だろう?

惑星<雨>に 今 陽がさして
見上げた先に 映ったのは
終わりとはじまりの 雨

私が辿り着いたのは あなたとの 約束の地
あなたが誰だか やっとわかったの

青い鳥は 約束の地で うたっているよ
これまでも 今も これからも

あなたを 送り出し
あなたを 待っていたのは 誰だった?

私は ここで 踊っているよ
これまでも 今も これからも

 

 

分離できない私と世界

時々、思う。
生命じゃないものは、存在するだろうか? 全部、生命なんじゃないだろうか? と。

“生命”という言葉をどう定義するのかは、人によって、分野によっていろいろ違うけれど、すべての根底にあるもの、あるいはすべての背後にあるものを“生命”とするならば、それはすべてのものに当てはまるのではないだろうか、と思う。

私たちの時代に生きる多くの人たちは、物質と精神とを分けているけれど、物質を創っているのは何だろう? 物質が生まれる前はどうなんだろう? と考えてみると、精神が物質を生み出している、あるいは精神の中に物質がある、という考えが浮かんでくる。すべてが、エネルギー、周波数をもっているのならば、と。
そして、物質に接しているとき、私たちに何が起きるのだろう? と考えてみると、物質が精神を生み出している。あるいは物質の中に精神がある、という考えが浮かんでくる。すべてのエネルギー、周波数がこの世界に影響を与えているのならば、と。
そうであるなら、自分と世界(宇宙)は同じで、決して分かれることはできないし、分かれたこともなかったのではないだろうか、という考えが浮かんでくる。それなのに、私たちは、ここで何をしているのだろう・・・?

平和な心と平和な世界。荒廃した心と荒廃した世界。豊かな心と豊かな世界。二つは一つ。バラバラなものはない。
自分を知ることは、世界を知ること。自分の変化は、世界の変化。世界の変化は、自分の変化。すべては繋がっている。関係のない人はいない。

「わたしたちの見る事物はね。」とピストリウスは小声で言った。「わたしたちが心の中に持っているのと、同じものなんだよ。わたしたちは心の中に持っているのよりほかには、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は、外部の映像を現実だと思って、心の中にある自分自身の世界に、ちっとも発言させないから、それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。そうやって幸福になることはできるさ。しかし一度、あのもうひとつのことを知ってしまうと、大多数の道をゆくという自由はなくなる。ジンクレエル、大多数の道は楽だが、わたしたちの道はつらいのだぞ。―さあ、行こう。」

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界がはじめに生まれたのか。意識がはじめに生まれたのか・・・。
科学が説明する世界が、人間の主観によるものならば、“世界”は、人間が生まれた後にできたのか・・・。
この世界は、宇宙の中にある。宇宙以外ものは、この世界に存在しない。それなら、やっぱり生命でないものは、ここには存在しないのだろう・・・。

 

 

終わりと始まりの鼓動、地球が活動していなければ豊かな自然は生まれない

flower07メフィストーフェレス:
それでも無論たいしたことはできんですよ。
無に対立している或物ですね、
つまりこの気のきかない世界というやつですね、
こいつは、私がこれまでやってみたところでは、
なんとも手に負えないやつなんです。
津波、暴風、地震、火事、いろいろやってみますが、
結局、海も陸も元のままに平然たるものです。
それにあの忌々しいやつ、動物や人間のやつらときたら、
どうにも手のつけようがありませんや。
これまでどれほど葬ってやったでしょう、
それでも新鮮潑剌たる血が依然として循環するのです。
こういう工合だからわれわれも気が狂いそうになるんですよ。
空気から、水から、地面から、
千万の芽が萌え出してくる、
乾いた所からも湿った所からも暖かい所からも寒い所からもです。

(参考:岩波文庫「ファウスト 第一部」ゲーテ作、相良守峯訳)

時々、思う。
“被害”とは、何なのだろう? “異常気象”とか“自然災害”とは、何なのだろう? と。

「未完の創造に栄えあれ!」
アーシュラ・K・ル=グウィンのどの物語に出てくる台詞だったか忘れてしまいましたが、私を身体の中心からグッと立ち上がらせてくれる、とても好きな言葉です。

地球がこうして活動していなければ、私たちはどんな世界にいることになるのだろう?
山があって、川があって、森があって、海があって。晴れの日、雨の日、嵐の日、雪の日があって。地震が起きて、噴火が起きて。虹が架かって、風が吹いて・・・。こんなに豊かな自然は出来ていないかもしれない。そして、こんなに多様な生物も生まれてこなかったかもしれない。多くの詩も多くの踊りも多くの芸術も生まれることはなかったかもしれない。
山はどうやって出来るのか。それを知るだけでも、多くのことを知ることができる。

“環境保護”や“動物保護”は、どこまで人間が関わる必要があるのだろう?
すべて今私たちが生きているこの状態のままにしておくことは、自然なことだろうか? それもまた、人間の勝手な考えなのではないだろうか、と思う。これまでだって、地球の環境はずっと一定だったということはなかったはずなのに・・・。
絶滅した生物を復活させようという考えは、どこからくるのだろう? それで満たされるのは、狭い想像力の中の好奇心とほんの一時だけの達成感だけなのではないだろうか。多くの生物の生と死によって、私たちがここにいることを忘れてはいけないのでは・・・。
もちろん、過度な搾取や破壊、循環しないものや必要以上の大量生産は、考え直さなければいけない。それも、“自然であること”の範囲を超えていることだから。
でも、“異常”とは“被害”とは、誰の目線で言っていることなのだろう? もっと高くて深いところから見たら、この変化はどう見えるだろう?

大きな自然の力を受けて、これまでの生活が急にできなくなることは大変だれど、そこに“奪われる”という感覚はないし、“終わり”を見ることもできない。崩壊と同時に“始まり”の鼓動を聞く。
その時マイナスだと思った出来事も、そこから一歩踏み出す時にはプラスになっている、ということを経験したことがある人は多いのではないだろうか。自分が暗闇にいると思っていても、光は、暗闇の中にあるのです。そこに目を向けてみた時、暗闇はやさしく笑って消えていくでしょう。

世界が終わると言っている人たちは、世界のどこを見てそう言っているのだろう?
新しい世界が始まると言っている人たちは、世界のどこを見てそう言っているのだろう?
終わりの先には、何があるのだろう? 始まりの前には、何があるのだろう?
それを、誰が知るのだろう?
今日もこの地球の活動的なエネルギーに、私はドキドキしています。
生きている地球。生きている宇宙。ドクンドクンドクンドクン・・・。私もここで生きている。
“温暖化”は、この地球のエネルギーが上がっているからなのでは・・・。
世界が終わる? “世界”は、こうしてあるのに・・・。

日々いろんなことが起きているけれど、表面に見えることだけではなく、エネルギーを見ることが出来れば、不安な感情に押しつぶされることも、不安をあおるような情報に振り回されることもなくなるのではないだろうか。
ここにいるのは、人間だけではないのだから。

“自然な生き方”とは、どんな生き方のことなのだろう?

地上生活の根底に宇宙の萌芽が感じとれたとき、一切の地上生活の意味が透明になる。どんな植物形態も、どんな石も、否、地球全体が新たに甦るべき大宇宙の胚種なのだ。このことを地球は、その生命と形姿のよって明示している。人間の魂がこのことに気づくなら、地上のどんな存在も新しい光の下に現われるであろう。

(参考:春秋社「シュタイナー 悪について <ミカエルの秘儀>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)