世界の見方、本当の癒しは“ここ”にある

sky06「ハラ、たしかに世界は広く、謎に満ちている。だが、わたしたちの心のほうがそれよりも広く、もっと多くの謎に満ちているんだよ。ときにはそのことも考えてみるがいい。」

(参考:岩波書店「アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ」ル=グウィン作、清水真砂子訳)

時々、思う。
どうして、私たちは同じ世界の中にいるのに、それぞれ違う世界を見ているのだろう? と。

日食や月食、彗星など、宇宙のイベントが起きるとき、科学系のサイトでもスピリチュアル系のサイトでも大きく取り上げ、双方とも同じ時に同じ宙を見上げている。でも、それぞれ違う見方をして、違う解釈をしている。
宇宙のイベントだけでなく、どんな出来事の場面を一つ取ってみても、それぞれの見方や立ち位置で受け止め方が違っている。
「どうしてそうなる?」と思うことでも、それは正しいことで当たり前のことで普通のことだと言う人もいる。「それぐらいのことで?」と思うことでも、それは生きるか死ぬかの一大事だったりする人もいる。同じ事柄でも、それを幸せだと思う人もいれば、不幸だと思う人もいる。そして、それは時代によっても変わっていく。
それぞれの世界の見方で、その人にとっての世界の真実が変わり、その人の現実、体験する世界も変わっていく。

物事をよーくよーく見て、ずっとずっと深く探っていくと、気づくことがある。
それはどんどん細かく探っていくと、どんどん細部が見えてくるのと同時に、どんどん全体が見えてくる感じ。そこで見つけるものは、最も簡単で単純なものではないだろうか。「こうあるべきだ」と決めつける前に、その物事をそのまま丸ごと見つめてみると、そこで見つけるものも、結局、最も簡単で単純なものではないだろうか。

「科学かスピリチュアルか」とか、「西洋か東洋か」とか、「男か女か」とか、他にも何か一見対極にありそうにみえるカテゴリーでも、どっちかだけを正しいとするのではなく、どっちもという選択もあるのではないだろうか。そして、その両方を超えた視点というものもあるんじゃないだろうか。「内側か外側か」ということもまた。
真の旅は、帰ること。行ったっきりではいけない。
内側の世界に留まったままではいけないし、外側の世界だけに夢中になっていてもいけない。二つの世界は一つ。そして、“ここ”に戻ってこなくてはいけないのだと思う。

人間が、自分のまわりの世界のなかで自分をふたたび認識するときにだけ、逆にまた人間が、世界の像を自分のなかでふたたび発見するときにだけ、人間は、その世界を故郷のように感じることができる。まさにこのことこそ、すべての文化に本質なのです。

(参考:岩波書店「「はてしない物語」事典―ミヒャエル・エンデのファンタージェン <ファンタージェン―国境のない国で道に迷わないために>」ローマン&パトリック・ホッケ編者、丘沢静也、荻原耕平訳)

瞑想をして気持ちよくなっているだけではいけないし、詳しい事はわからないけれど、ビジネス化したスピリチュアル系のモノや人だけに頼っていてはいけないと思っています。スピリチュアルといいながら、なぜ、モノに力をあたえるのだろう。なぜ、人間を弱いもの、傷ついたものとするのだろう。なぜ、自分たちがしていることをしていない人や出来ていない人を非難するのだろう。なぜ、そんなに時間や場所に囚われているのだろう、と思うからです。
それはまるで扉はずっと開いているのに、それを見ないように戸口の前で遊んでいるように見える。“それ”はすでに“ここ”にあるのだとわかってしまえば、彼らの遊びは終わってしまう。それに気づいたら、彼らは何を始めるだろう・・・。

そして、薬に頼り過ぎることもよくないと思っています。
何か問題が起きたら、薬を飲めばすべて解決できるという考え方は、とにかく手っ取り早くやってしまおうという安易な考え方がみえて、乱暴にもみえる。
当たり前のことだけれど、口にしたものが私たちの身体をつくっている。何を食べているかというと、地球で育ったもの。地球の中で共に生きるたくさんの生命によって私たちの身体はできている。そして、地球は宇宙の中にあって、完璧に循環しているはず。
添加物や化学薬品などは、私たちの身体に本当に必要なものなのだろうか・・・。

私たちの考えることや感情も身体に影響を与えている。
うつ状態のとき、身体はどうなるだろう? 重くて動かなくなる。座っているのさえ辛い。横になっても眠れない。身体はどんどん停止していくよう・・・。
ストレスが溜まるとジャンクフードが食べたくなるのはどうしてだろう? タバコが吸いたくなるのは、お酒をたくさん飲みたくなるのはどうしてだろう? それを続けていると、身体はどうなっていくだろう?
肌が荒れたり、内臓が悪くなったり、集中力がなくなったり・・・。その時、薬だけでなんとかしようとするとどうなるだろう? 私たちの身体は、常に循環して完璧なはずなのに。自ら悪くなる方へとどんどん向かっていないだろうか・・・。

体質や性格も、みんなそれぞれ違う。だから、コレを服用すれば、コレを持って入れば、コレをやれば絶対大丈夫。ということは、簡単に決められないことなのではないだろうか。
問題を手っ取り早くモノで解決しようとする前に、自分の意識に注意を向けてみてはどうだろう。
イライラ、うじうじ、どうしよう、お前のせいだ、僕なんてどうせ・・・。でも、その時、それを見ている静かでおだやかな自分がいるはず。それに気づけば、世界はまた新たな面を見せてくれる。

「わかったわ。」 とルーシィは、考えにふけりながら、さいごにいいました。「いまやっとわかったわ。この庭は、あのうまやのようね。そとよりなかのほうが、ずっと大きいのね。」
「もちろんですよ。イブのむすめさん。」 とフォーンがいいました。「あなたが、さらに高く、さらに奥へはいっていくにつれて、なにもかもずっと大きくなるのです。うちがわは、そとがわよりも大きいものですよ。」
(中略)
「わかったわ。」 とルーシィ。「ここもやっぱりナルニアね。下にあるナルニアよりも、もっと真実で、もっと美しいナルニアね。ちょうど下のナルニアが、うまやの戸のそとにあったまことのナルニアよりも、もっともっと真実で美しかったように! 世界のなかにある世界、ナルニアのうちがわのナルニアだわ・・・・・」
「そうです。」 とタスナムさん。「タマネギみたいでしょ。でもこれは、あなたが奥へはいればはいるほど、その皮が、まえにむいた皮よりずっと大きくなるところが、ちがいますけどね。」

(参考:岩波少年文庫「さいごの戦い」(ナルニア国物語7)C,S,ルイス作、瀬田貞二訳)

“それ”は、何かの大きなイベントによって起きるのではなく、誰かの派手なパフォーマンスによって起きるのではなく、それぞれの人の中で、ただ“それ”が起きるだけ。待っていることも、つかみ取りに行く必要もない。
“それ”は、一時の限定的な癒しとは違う。しっかり目を開けて内と外の世界を体験すれば、“それ”が見出され、以降“それ”が決して消えることがないことを知る。
そこに本当の癒しがある。
それを知ったとき、世界は、真に生き生きしたものとなり、その中を力強く生きていける。

誰かを通して見た世界ではなく、自分の目で見てみたら、この世界はどう見えるだろう?
そして、その目で自分自身を見てみたら、そこに何を見るだろう?

わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。

(参考:光文社古典新訳文庫「実践理性批判2」カント著、中山元訳)