アトリエからの報告」カテゴリーアーカイブ

制作中の想い事

制作中のキャンバスに向かってひたすら描いている姿は、大きなアクションもなく、同じような姿勢でずっと同じ場所にいるように見える。でも、同時に大冒険をしている。耳に聞こえない、目に見えない場所での大冒険。

絵画を観ているとき、そこから聴こえてくる音は、人それぞれ違うのだろう。
本を読んでいるとき、そこに見える風景は、きっと全く同じではないのだろう。
音楽を聴いているとき、そこにあらわれる色もまた違うのだろう。
それぞれの中に、それぞれの世界をみている。
この世界も、また・・・。
でも、共鳴した瞬間は、どうしてあんなに気持ちがいいのだろう。

“始原の遊戯” 好きな言葉の一つ。この冒険に欠かせないもの。
「果てはあるのか?」と、浮かぶままに描いてみる。
行き着く前に、紙とインクがなくなった。物質化は一時中断。“出来上がる”には、いろいろ道具が必要だ。
でも、目を閉じればそこに有る。
どうやら、果てはないようだ。

尽きることのないエネルギー。誰もがそのエネルギー。

“一枚の絵は千語にまさる”。力強い言葉を知った。
言葉であれこれ説明しなくても、その前に立てば、スッと繋がることができるからだろうか。
余白に、そして、それを見る人との間に、世界の秘密がチラリと姿をあらわすからだろうか。

“この世界もまた絵のようだ”。と言う人がいる。
どこに視点を合わせるかで、見える世界が、体験する世界が変わるからだろうか。
そして、自分が成長すれば、同じ世界も違って見えるからだろうか。
まだ意識を向けていないものが、きっとたくさんあるのだろう。
この世界は、可能性で溢れている。

何を描こうか。何を創ろうか。
真っ白なキャンバスに、そっと色を置いたその瞬間、世界が動き出す。
制作中は、地球の仕事。
冒険中は、地球と宇宙との仕事。
睡眠中は、宇宙の仕事。
でも、きっとどんなことでもそうなんだ。誰にだって起きていることなんだ。

 

 

創造者と観察者

tomatoよく、こういう質問がくる。「いつ、完成って決めるんですか?」
私は、こう答える。「自分の身体から離れる瞬間があって、そうなったら完成です。その後は、作品は作品自体でそこに在るようになって、観る人それぞれのものになります。だから、そこに私はいるけどいない、ってゆう感じになります」

ノヴァーリスの本の中に、こう書かれているところがありました。

完成へ一歩進むごとに、作品は芸術家の手を離れ、はるかな空間を超えて飛びだしていく ―そして最後の一手を入れるや、芸術家は、自分のものと思っていた作品が、思考の裂け目によって自分から隔てられてしまったのに気づく。その隔たりはかれ自身にもほとんど把握できない ―その裂け目を越えられるのは、知の働きという巨人の影のような想像力だけである。作品は、それがまったく芸術家のものとなるべきその瞬間に、創造主であるかれを超えた存在となり、それを意識せぬまま高次の力の器官となり、所有物となったのである。芸術家が作品に属するのであって、作品が芸術家に属するにではない。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集3」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

描き終わると、“私のもの”という感覚がなくなってしまう。だから、画面にサインを書くということに昔から抵抗があって、私はほとんど表から見えないところに書いている。本当は、それすらもあまりという感じ。観る人にとっても、色眼鏡が一つかかってしまうんじゃないかというような気もするから。

もう一つ、よく質問される問いがある。「どうやって想いつくのですか?」
想いつくというより、「みえたから」。
私は、それを創るだけ。内と外の循環を繰り返しながら創り上げていく。あるいは、変換していく。内でみたものを外のカタチへと変換していく。制作中は、創造者でありながら、観察者でもある。

こんな質問もある。これがとても多い。「作品を仕上げるのに、どれくらいの時間がかかるのですか?」
完成までに時間が長くかかったのだと答えると、「いやー、大変だね。でも、それぐらいの時間はかかるよね」とかえってくる。完成までの時間が短かったと答えると、「えー、すごいね。そんな短時間でできるんだ。さすがだね」とかえってくる。
それよりも、ただ“みる”ことをすれば、それだけでいいのでは・・・と思う。

無理に作家と会話をしなくてもいいのだと思う。出来上がった作品は、もう作家だけのものではないのだから。それに、がっかりすることもあるかもしれない。作品から受けるイメージと作家本人があまりにも違うために・・・。作品は、作家自身から生まれてくるものではあるけれど、それは作家自身がまだ知らないことだったりもする。だから、作品の説明も100%正確にできるわけではない。出来上がった作品から教えられるということは、多々起きていること。作品は、作家自身であって、作家自身ではないのだから。
作品と対面する自分との間で交わす言葉にならない、内と外、わたしとあなたの境界がなくなった、別の次元で交わされる会話。それだけで十分なのではないだろうか。そして、それを報告しなくてもいいのだと思う。ちゃんとわかっているから。
だって、説明できないものでもあるのだし、説明した途端、別物になってしまうこともあるのだから。
私は、その様子を見るだけで大満足。作品とそれを見ている人との空間が、フッと変わる、その瞬間を見ることができただけで。

他の人がどうかはわからないけれど、私は、そう思っています。

 

 

芸術家の所在、世界の境界が無くなるとき

flower11物語の書き手は、どこにいるのだろう?
書き手は、登場するすべての存在になる。すべての場面になる。善にも悪にもなる。でも、書き手自身は登場しない。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
書き手は、誰でもあって、誰でもない。
役者も、そうかもしれない。
役を演じている間はその存在になるけれど、舞台を下りれば、自分に戻る。演じている役が自分ではないことを知っている。すべての存在になりながら、繰り広げられるドラマの外にいる。
役者も、誰でもあって、誰でもない。

芸術家は、この世界の中で、世界を創り出す。いや、「世界をみつける」と言った方が正確かもしれない。創り出そうとしても創れない。とにかく創らなければという思いだけでつくってみても、何だか気持ちの悪い、ニセモノくさいものが出来上がってしまう。だから、待つ。静寂と活動の狭間でじっと待つ。それがこっちに来るのをじっと待つ。それに見出されるのをじっと待つ。
日々の出来事や聞いたり見たりしたことからインスピレーションを受けることもたくさんあるけれど、その時も、その前まではずっと待っている。そして、それが目や耳に飛び込んできて、「あ、これね。わかったわ」となる。
待っているとみえてくる。世界がクルッとこっちを向く。そして、その世界をもっと観察するために奥へ奥へと探索をはじめる。
いろんな発見をしながら、もっと奥へ奥へと進んでいくと、外側の世界との境界が消えていくのを感じる。そこで、作家は世界になり、世界が作家になる。すると、作家が描いているのか、世界が描いているのかわからなくなる。芸術家が、誰でもあって誰でもなくなるのは、この時だ。その感覚は、最高に気持ちがいい。その美しさと強さは圧倒的だ。
そして、それが限られた、選ばれた人だけに起きることではないことも知っている。
それを意識しているか、していないかだけのこと。それと向き合おうとしているか、していないかだけのことだと。

散文も詩も ―すべての美術、音楽、ダンスも― わたしたちの体、わたしたちの存在、そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。物理学者は、宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。

(参考:岩波現代文庫「ファンタジーと言葉 <わたしがいちばんよくきかれる質問>」アーシュラ・K・ル=グウィン著、青木由紀子訳)

私は、私。誰でもあって、誰でもない。

 

 

仕事は遊ぶこと、自由な遊びをしよう、いろいろ観察してみよう(2)

suncatcherこの世界について、量や重さや距離など、数字であらわすことができなければ、自分の目で見なければ、耳で聞かなければ、納得しない人がいる。そういう人たちは、絵画を見たとき、どんなことを感じるのだろう?
そこに見えるのは、キャンバスと絵具だけなのだろうか。本を読むとき、そこに見えるのは、紙とインクだけなのだろうか。
“みる”ということが出来なくなったら、人間はどうなってしまうのだろう?

「色」をじっくり観察してみよう。
赤色と青色を用意する。異なる色であれば、何色でもかまわない。
赤色を見たとき、そこから何を受け取るだろう? どんな音が聞こえる? どんな形が見える? どんな温度を感じる? どんな匂いがする? 青色を見たときは、そこから何を受け取るだろう?
今度は、赤色と青色を見比べてみる。そこにどんな違いがあるだろう? 赤色と青色の間に、何を感じるだろう?

「音」をじっくり観察してみよう。
二つの違う音を用意する。高い音と低い音とか、金属を叩く音と木を叩く音とか・・・。
質問は色のときと同じ。まず片方の音だけを鳴らす。その音から、何を受け取るだろう? どんな色が見える? どんな形? どんな温度を感じる? どんな匂いがする?
次に、もう片方の音を鳴らす。どんな色が見える? どんな形? どんな温度を感じる? どんな匂いがする?
今度は、二つの音を聞き比べてみる。同時に鳴らしてみる。そこにどんな違いがあるだろう? 二つの音の間に、何を感じるだろう?

「形」をじっくり観察してみよう。
二つの形を用意する。○と×とか、△と□とか、♡と☆とか・・・。
質問とやり方は同じ。その形から、何を受け取るだろう? どんな色? どんな音? どんな温度? どんな匂い?
二つの形に、どんな違いがあるだろう? 二つの形の間に、何を感じるだろう?

「言葉」もじっくり観察してみる。
二つの言葉を用意する。海と山とか、フワフワとチクチクとか、好きと嫌いとか、赤色と青色とか・・・。その言葉を紙に書いてみる。声に出してみる。
質問は同じ。その言葉から、その言葉の意味以外に何を受け取るだろう? それは、どんな色? どんな音? どんな形? どんな温度? どんな匂い?
二つの言葉を比べたとき、そこにどんな違いがあるだろう? 二つの言葉の間に、何か感じるものはあるだろうか?
このサイトには、こうして言葉がたくさんあるけれど、一体何色に見えているのだろう? どんな音が聞こえているのだろう? どんな温度を、どんな匂いを感じているのだろう・・・?

「感情」もじっくり観察してみる。
二つの感情を用意する。嬉しいと悲しいとか、愛しいと憎らしいとか、美しいと醜いとか・・・。
質問は同じ。その感情を想像したときに湧き上がる感覚以外に何を受け取るだろう? それは、どんな色だろう? どんな音だろう? どんな形だろう? どんな温度だろう? どんな匂いだろう?
二つの感情を比べたとき、どんな違いがあるだろう? 二つの感情の間に、何を感じるだろう?

「思考」についても同じことをやってみる。
こうやってきてみて、はたと気づく。この感覚を、どこで知ったのだろう・・・と。

四大要素、または五大要素の色分けは、どうしてそうなったのだろう? 戦隊もののヒーローたちの色分けは? 信号機の色分けは? 男性と女性の色分けだって・・・。
そのアイディアは、どこから来たのだろう? 出来上がったものだけでなく、出来上がる前や出来上がる過程に意識を向けることも、とても大事なことではないだろうか。

私たちには、多次元的に物事をみる力がある。数値だけであらわすことができない世界があることを、赤色は、数値であらわされる“赤色”だけではないということをさっき確認した。
その目で日々起きる出来事をみてみたら、どうみえるだろう? 直線的、平面的、一次元的にみるのではなく、螺旋状にみたり、立体的、多次元的にみてみる。そうしたら、これまで気づかなかったことが、みえてくるかもしれない。

真っ白のキャンバスに向かったとき、何を感じるだろう?
静寂の空間に立ったとき、何を感じるだろう?
そこに、創造の鼓動を感じないだろうか?
創造の源に手を伸ばし、静寂に創造の音を聴く芸術家、丁寧な暮らし方をしている人たちは、いつも世界の秘密に触れている。
子供たちも、また。

 

 

仕事は遊ぶこと、自由な遊びをしよう、いろいろ観察してみよう(1)

whitebirdモビールを作る。
天井から吊すと、ゆらゆら左右に揺れながら、ゆっくりと全体で回転していく。
左と右、闇と光、静と動、男と女、生と死、あなたとわたし、わたしと世界・・・。二つがバランスを取りながら、一つの中心をもって大きく回転している。片方だけじゃ成り立たない。
この世界は、きっと・・・。

そこにリュースター(サンキャッチャー)をつける。
キラキラと太陽光を反射して、部屋の壁に虹色を映し出す。
どうやって、見えない色がわかるのだろう? それは、光が物質に当たって反射したものをこの目で見ているから。全部反射したものが白色で、全部吸収したものが黒色に見える。そして、光の屈折の角度によっていろいろな色を見る。でも、私たちが見ているのは、白色と黒色、虹色の可視光とよばれる範囲だけ。100%光を反射する“本当の白”、100%光を吸収する“本当の黒”は、この目ではつかめない。
虹色の外側には、何があるのだろう? 紫外線や赤外線は、シミやシワができたり熱を感じたりすることでその存在を知ることはできるけれど、この目で見ることはできない。
私たちが見ているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには見えない色を見る昆虫たちは、どんな世界を見ているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

窓の外で、鳥が鳴いている。
この音は、どうして聞こえるのだろう? それは空気が振動して、それを私たちの耳がとらえているから。音にも私たちが感知できる範囲、可聴域というものがある。
私たちが聞いているのもが、この世界のすべてじゃない。
私たちには聞こえない音を聞くイルカたちは、何を話しているのだろう・・・?
この世界は、きっと・・・。

振動という言葉が出てきたけれど、光も振動している。物質も私たちも振動している。その周波数の違いによって、聞こえる音、見える色、形が違ってくる。この世界を創るものだ。
それが生まれる前は、どうだったのだろう? それが消えた後は、どうなるのだろう?
私たちにはとらえられないものがある。
この世界は、きっと・・・。

子供の頃に遊んだ、ぐるぐる定規(スピログラフ)もやってみる。
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、幾何学模様。ぐるぐるぐるぐる、花のよう。ぐるぐるぐるぐる、銀河みたい。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、何だかみんな、とても似ているな・・・。
この世界は、きっと・・・。

“子供の仕事は遊ぶこと”。という言葉がある。
大人は、どうして遊びと仕事をきっちり分けたがるのだろう? 遊びを悪いものや幼稚なもの、劣っていることや役に立たないこととするのだろう? “真剣な遊び”があるのに・・・。
芸術家は、遊んでいるのか? そう、“真剣な遊び”をしています。

遊ぶことは、想像力を使う。

単純な形の積み木遊びの中で、子供たちは物語をつくる。
丸い積み木は、太陽、月、池、優しい人・・・。四角い積み木は、車、船、机、頑固な人・・・。三角の積み木は、山、木、帽子、意地悪な人・・・。
今度は、組み合わせて家をつくる、お城をつくる、街をつくる、森をつくる、惑星をつくる。王子さまにお姫さま、魔法使いに妖精たち、トリックスターの案内人・・・。
ゴゴゴゴーッ。風が唸るよ。バサバサバサッ。雨が降ってきた。ピカッ、ゴロゴロゴロ。雷も。キャー、大変! どうしよう。ほら、あそこに明かりが見えるよ! 山小屋だ。あそこに行こう! ・・・。さてさて、どんな物語になるだろう?
「いつまで遊んでるの! はやく片づけて勉強しなさい! 悪い大人になっちゃうわよ!」
ママの一撃で空想の世界は終わり。“現実”とされる決められた生き方に従うように要求される。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

泥んこ遊び、楽しいな。
ややっ、カエルさん。ややっ、トンボさん。きれいなお色をしてるのね。
ねえねえ、お団子つくったよ。こっちはあんこが入ったお団子でね、こっちはねえ・・・。
「やだっ! こんなに汚して! キャーッ、カエルなんて触って気持ち悪い! 何を言ってるの! さあ、もう帰るわよ。パパに叱ってもらいましょう。」
ママの一撃で世界から切り離される。“きれい”とされる清潔で整頓された環境に押し込まれる。
ああ、あとちょっとで世界の秘密に触れられたかもしれないのに・・・。

内なる想像が、外への創造に繋がる。豊かな想像が、豊かな世界を創造する。それなのに、その想像力を抑えつけてしまったら、一体何が創造されるだろう・・・。
はたして、今のこの現実とされている世界は、すばらしい世界になっているだろうか?
子供たちは、遊びの中で多くのことを学ぶ。そして、内なる世界と外の世界を十分に遊んだ子供は、とても豊かな大人になるのではないだろうか。そして、そんな彼らが創っていく世界は、とても豊かな世界になるんじゃないだろうか。
子供たちを安全・安心という名の檻の中に閉じこめるのは、本当に、安全・安心なことなのだろうか?

“イマジネーション”と言うとき、わたしが言っているのは、知的感覚的な精神の自由な遊び(フリー・プレイ)のことです。あそび(プレイ)とは、リクリエーション=再創造(リ・クリエーション)、つまり既知のものを組み合わせて新たなものを作り出すこと。自由(フリー)とは、それが目先の実益に執着しない自発的な行為であることを指します。だからといってしかし、これはその自由な遊びが目的を欠いているということではありません。むしろ、なにを目指すかはとても大切な問題です。子どものやる“ごっこ遊び”は明らかに大人の情緒や行動の手習いとなるものです。あそびを知らぬ子どもは大人にもなれません。他方、大人の心の自由な産物が、『戦争と平和』だったり相対性理論だったりするのです。つまるところ、自由は野放しとはちがいます。想像力(イマジネーション)の鍛錬は科学にとっても芸術にとっても不可欠な技巧であり、方法であります。
(中略)
いくつかの能力のなかでも、究極的に言って、イマジネーションとは最も深く、人間的な力のひとつではないかと思うのです。司書として、教師として、親として、作家として、いえ単にひとりの大人として、わたくしたちの子どもの内なるイマジネーションの力を助力し、最上の ―吸収できるかぎり最も純粋で良質の養分を与えてやることによって、それがすくすくと伸び育ち、やがて月桂樹のようにみごとな緑をおいしげらせるようにしてやるのは、わたくしたち大人の心たのしい義務でもあります。そうして、いかなる場合にもけっして、それを抑えつけたり、あざわらったり、子どもっぽいだの男らしくないだのウソの話じゃないかなどと言ってはなりません。
なぜならば、言うまでもなくファンタジーは真実だからです。<事実>ではありません。でも<真実>なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々を生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているからです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <アメリカ人はなぜ竜がこわいか>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

世界の秘密は、隠されることなく、いつでもどこでも、今ここにある。
それを見ないようにしてしまったのは、誰だろう?