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内なる声の源

sky07これまで私は いくつの私を 生きてきたのだろう?
はじめの私は 誰なのだろう?
そう考えている私を見ているのは 誰だろう?

内なる声が やってくる

それは 天使の導き? 悪魔の誘惑? それとも 真のことば?

内なる声 それは誰? それが 私だろうか?
いや それもまた 生まれては 消えていく
この声が生まれる前にも 私は 存在していた

内なる声の 源を探れ

静寂は 閉じるのではなく 開かれた場所

そこで 知ることがある
そこから 始まることがある

本当の現実を 生きる今
あたたかな大きな手を 背に感じ
私は ここで 目を開ける

 

 

“私”の所在

あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで

(参考:小学館「永遠の詩02 茨木のり子 <(存在)>」高橋順子選・鑑賞解説)

時々、思う。
私が、“私”としているものは、何なのだろう? と。

私とは、「こういう人だ」と自分で決めた私のことだろうか? それとも、「あなたはこういう人だ」と他人が決めた私のことだろうか? 私は、名前だろうか、国籍だろうか、人種だろうか? それとも職業だろうか、地位だろうか、○○賞だろうか? あるいは、家だろうか、お金だろうか? 私は、・・・?
それらはどれも、私が生まれた後に私にくっついてきたモノたち。それらがくっついてくる前にも“私”は存在していた。それなのに、どうしてそれらにしがみつくのだろう・・・。

私は、頭の中であーでもないこーでもないと絶えず活動している思考や感情なのだろうか?
でも、何かの考えが浮かんだとき、何かの感情が湧き上がってきたとき、その思考や感情をみつけた途端それとの間に距離ができ、それを見ている私がいることに気づく。急に我に返って、どんしてこんなことをしてしまったんだろう、となったことがある人は多いはず。
思考や感情が生まれる前にも“私”は存在していた。それなにの、どうしてその暴走を止められないのだろう・・・。

私は、この身体だろうか?
身体は、いつか死ぬ。それじゃ、“私”も死ぬのかな?
でも、誕生から死への一生の間でも、身体の細胞は、毎日毎日生と死を繰り返している。身体を“私”とするなら、私は毎日毎日生まれて死んで、生まれて死んでいることになる。
細胞が生と死を繰り返しているのなら、どうして、私の身体は老化するのだろう? 一体何が、身体を老化させているのだろう?
素粒子のレベルでみていくと、私たちの身体はスカスカなのだそう。ニュートリノは、私の身体を難なく通過していく。何の痛みを感じることもなく。
一体何が私を動かしているのだろう? 一体何が毎日私を眠らせ、朝目覚めさせるのだろう?

私はこれまで、遺体と対面する時には「彼(彼女)はここにはいない」と感じ、お墓参りに行っても、「会えた」ということを感じることはありませんでした。
お葬式やお墓参りは、この地上に残った人たちのためにあるのではないかと、私は思っています。故人へ感謝を伝えるために、自分の心の整理のために、そして、死と対面することで、あらためて生と対面できるように。

「千の風になって」という詩に、こうありました。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

(参考:「千の風になって」作詞:不明、日本語訳詩、作曲:新井満)

「星の王子さま」は、こう言いました。

「ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとうじゃないんだ・・・・・」
ぼくは、だまっていました。
「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持っていけないの。重すぎるんだもの」
ぼくはだまっていました。
「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・・・・」

(参考:岩波少年文庫「星の王子さま」サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

“私”は、どこにいるのだろう? 身体じゃないとしたら、どうして死を恐れるのだろう・・・。
しばし沈黙。そして、思考が遠く遠く去って行ったとき、何かがフッとこちらを向く。それが私をのみ込み、私はそれになる。
ハッと気づいた途端、いろいろくっつけてきた、身体をもった私に戻る。「あれは、何だったのだろう? あの感じは・・・」。そして、思考と感情が再び立ち上がる。

古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」に、こう書ありました。

誰が確かに知っているのか、ここにいる誰が教えることができるか、
この創造がどこから生じ、どこから来たのか。
神々の出現は、この創造の結果である。
それならそれの出現がどこから来たものかを誰が知ろうか。

この創造はどこから来たのだろう。
何者かが創ったのかそれとも創らなかったのか。
最高天にあって監視する者のみが知っている。
あるいは彼もまた知らないのか。

(参考:リグ・ヴェーダ, X. 129)

“それ”をあらわすことはできない。“それ”に何かのカタチをつけた途端、“それ”ではなくなるから。カタチにして表わそうと試みると、今私たちが知っているモノに喩えることしかできないし、今ある言葉しか使えないということに気づく。
モノや言葉ではあらわせないものがあるということを知ることは、とても深い豊かさを知ることでもあると思う。

“それ”を知るためには、どうしたらいいだろう?
何か一つのことに集中しているときは、周りで起きていることにも過ぎていく時間にも身体の疲れも気にならない。その間は、とても静かで、ただただ満たされているという感じがある。でも、その状態から離れたとき、私はコレだアレだ、こうあるべきだなどと思考や感情が活発に動き出す。周りで起きていることに反応し、自分のカタチ作りや他人へのラベル貼りに忙しく活動しはじめ、そのことに対してまた反応しはじめる。静けさと満たされた感覚はなくなり、トラが現れ、誘惑者が現れ、罪や地獄が生まれていく。そして、どうして私にはできないのかと悩み、さらに“私”から遠ざかっていく・・・。

特別に何かをする必要はない。特別な日時もなく、特別に何かをそろえなくちゃいけないということもない。○○に行かなきゃいけない。○○に会わなくちゃいけない。○○をそろえなくちゃいけない・・・。そうしなくても、あなたはここにいる。
○○に行って、○○に会って、○○をそろえたら、満足するだろうか? その満足はほんの一時のもので、それが過ぎれば、あなたはきっとまた不安になって、何が足りないのかとあちこち探し回るだろう。
探しても見つからないのは、探しているその人を動かしているものが何なのか、ということに目を向けないから。あなたは、ここにいます。どこにいようと、ここにいます。

シラーは、こう書いています。

その全形態は、しずかに自分自身の中に憩い、そして安住しています。それはまったく寸分の隙もない一つの創造、 ―まるで空間の彼方にでもあるかのような、譲歩することもなく、反抗することもなく、 ―そこには力と争ってきた力はなに一つなく、時間的なものがはいりこめるような隙は少しもないのです。あの優雅さにいやおうなくとらえられ、ひきつけられ、あの自足性に遠く押しのけられながら、私たちは、最高の静けさと最高の動きの状態の中に同時に立つのです。そしてそこにあの不思議な ―知性もなんの概念も持たず、言葉もなに一つの名称をもたないような感動がおこるのです。 (第15信)

(参考:法政大学「人間の美的教育について」フリードリヒ・フォン・シラー著、小栗孝則訳)

すべては、“ここ”に来て、去っていく。雨が走ってきて、私の頭上を通り過ぎ、虹が架かり、空の中に消えていく・・・。
“それ”に気づいたとき、これまで現実だと思っていたものは現実ではなくなり、本当の現実が姿をあらわす。大きな生命の流れの中で一体となる体験をする。みんなひとつの生命なんだということを“私”のすべてで知り、そこで“私”の居場所を知る。

「風の谷のナウシカ」は、こう言いました。

「私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている。」

(参考:徳間書店「風の谷のナウシカ 第7巻」宮崎駿作)

もう、自分の力を誰かに明け渡すことも、奪うことも必要のないことだとわかるでしょう。
もう、盲目的に自分のエゴにも他人のエゴにも振り回されることはないでしょう。
自分のエゴは、見つけた途端、力を失くしてしまうのだから。他人のエゴは、かまうことをしなければ、満たしてくれる相手がいなくなって消えていく。「エゴは私ではない」それに気づくと、「罪を憎んで人を憎まず」ということもわかるのではないだろうか。

私たちを解放してくれる力が、“ここ”にある。
“汝自身を知れ”

 

 

故郷の感覚

lotus01時々、思う。
この目に映るもの、この耳に届くもの、この身に伝わるもの。それは、植物、動物、鉱物、大地、山、川、森、海、空、風、雨、雲、マグマ、星、惑星、銀河・・・。これらは一体何だろう? と。

この世界にあらわれているものは、みんな違って見える。でも、もっとよく見てよく観察してみると、見えてくるものがある。それは、観ることの限界を超えた先に見えてくる。
それを神と呼ぶ人もいる。それを生命と呼ぶ人もいる。それを故郷と呼ぶ人もいる。それは私たちのなかにもある。私たち自身も、それだ。

学術的なことを知らなくても、自然の中に入った時、どんなことを感じるだろう? 動物に触れたときは、どんな感じがするだろう?
解放と安心を自分の全部で感じるだろうか。それとも、恐怖を感じるだろうか。その圧倒的な強さゆえに。膨大な生命の多様性と、それがここにあるということに。そして、失ったものの大きさに。

“世界の中心は自分の中にある”。よく聞く言葉だけれど、一歩間違えれば自己中心的な人になってしまう。でも、自分が地球にいることを、そして宇宙の中にいることをしっかりと感じることができていれば、身勝手なことはできないし、オレ様面はなんてつまらなくてダサいことだと思うのではないだろうか。
自己中心的な人は、とても弱く見える。大声を上げているのを見ると、どうしてそんなにおびえているのだろうと感じる。柔軟性がなく、強い風が吹いたらポキッと折れてしまいそう。
全体と中心を知っている人は、とても穏やかでユーモアを言えるほどの余裕があって、そのしなやかさで、強い風が吹いても動じない、おだやかな強さを感じる。
大地の上に立ったとき、自分の中心を感じながら東西南北を意識すると、身体の内の奥深くから、“私はここにいる”という感覚がグッと湧き上がり、そこから一気に自分が世界へと広がっていくのを感じる。そして、底知れない安心感と勇気が満ちてくる。
その感覚でいれば、どこにいても迷うことはなくなり、世界が混乱しているようにみえる中にあっても、振り回されることなく淡々と歩み続けることができて、トラブルが起きても、落ち着いて対応できるようになれるのではないだろうか。

世界の中で、ある力が動き出す。
それを誰が知ることができるだろう? でも、その力を自分の中で感じることができる。
エネルギーが生まれ、周波数ができ、カタチに成る。
私たちは、それを体験する。そして、それを見ているものに気づく。

生命の呼吸を感じるだろうか? 生命の鼓動を感じるだろうか?
吸って吐いて、ドクンドクン、拡大と収縮を繰り返し、行っては帰り、破壊と再生、生と死を繰り返す、一つの生命。
私もあなたも、共に呼吸し鼓動する、一つの生命の一部であり、世界そのもの。

この世界は、生命であふれている。
なんて、豊かなんだろう! なんて、力強いのだろう!
孤独なことがあるだろうか? 小さな自分にかまうことがあるだろうか?
みんな一つの同じ生命なんだ。一つなのだから、そこには対立するものはない。

決めつけることなく、ただそれがあるままにあるようにあれば見えてくる。それがクルッとこちらを向いて世界の秘密を教えてくれる。そして、私たちの“故郷”が甦る。

新たな世界が明けそめ
太陽のまばゆい光さえ翳らせて
苔むす廃墟からは
不思議な未来がほのかに光る
これまでありきたりだったものが
いまは珍しく不思議なものに見えてくる。
<全のなかの一、一のなかの全
草や石に記された神の御姿
人間や禽獣にやどる神の御霊
それこそ心に留めねばならない
もはや時空にしばられた秩序はなく
いまや過去のなかに未来が現れる>
(中略)
あの大いなる世界の心情が
いたるところで蠢きだし、とこしえに花と咲く。
万物がたがいにうまくからみ合い
つぎつぎと育って熟していく ―
それぞれに一は全と混じりあい
むさぼるように奥深くまで潜みいり
自分独自の本性をよみがえらせ
新たな想念をいくつも得て
全のなかに姿を映す。

(参考:ちくま文庫「ノヴァーリス作品集2」ノヴァーリス作、今泉文子訳)

 

 

宇宙の色は色とりどり

flower08時々、思う。
どうして、みんな同じでなくちゃいけないのだろう? と。

“ひとつになろう” その言葉は、私たちがどうなろうと言っているのだろうか?
それは「これが正しいことだ」と誰かが言ったら、あっちの人もこっちの人もみんな同じ道を行き、同じ言葉を使い、「いや、それは正しくない。こっちが正しいんだ」とまた誰かが言えば、クルッと反転。あっちの人もこっちの人もみんな同じ道を行き、同じ言葉を使う、ということだろうか。
“同じもの”の囲いは、見た目が変わるだけで、結局同じことの繰り返し。従わないものは従わせるように抑えつけ、外見や思想の違う人たちは排除する。
これが、私たちが目指している“ひとつになる”ということだろうか・・・。

一色だけの世界は、つまらない。

私たちは、“元々ひとつで同じ”だとしたらどうだろう? ひとりひとりどんなに違っていても、元はひとつで同じなんだ、と。
思考や行動、その選択と決定権は個々の存在の数だけある。もし、誰かが自分と違う選択をとしたとしても、それはそれ。無理矢理「こっちだ!」とすることもしない。むしろ、“違う”ということから学ぶことは多い。自分がまだ知らなかった世界の存在を知ることもできるし、自分がどうゆう人なのかに気づくこともできる。
“ひとつになろう”とするのではなく、“ひとつである”ということがわかれば、互いの違いを自然と受け入れられ、争う必要もないことがわかる。“同じもの”の囲いはなく、“元々同じである”という帰る場所があるだけだ。
これが、私たちが目指していることではないだろうか。

でも、それはみんなはじめから知っていたことではなかっただろうか、とも思う。
ただ、いつ誰が作ったのかわからないルールだけど、それに従わなきゃいけないんだって、それが正しいことなんだって、そう思い込んでいるだけで。
でも、それも必要なことだったのかもしれない。
だって、光を見るためには、闇に持っていかなければいけないから。目覚めるためには、眠らなきゃいけないから。完全を知るためには不完全である必要があるから。そして、両方を見ることが出来たとき、大きな気づきと変革が起きるから。

色とりどりの世界は、楽しい。

でも、自分を変えてまで、人と違くなろうとするのは違う。
個性は、作るものじゃなくて、初めからあるものだから。新たに付け足すものではなく、引き出すものだから。そして、比べることでもない。それぞれの旅をするために必要なものであるだけなのだから。
そこに、本当の自由と平等がある。ひとりひとりが違うから、得意なこと、情熱を傾けるものが違うから、こうして世界は回っている。だから、学歴や職業によって優劣をつけるなん、何だかおかしなことのように思う。多様な人々がいるから、私たちの社会にもいろいろなものが生み出され、その多才な世界は色とりどりに輝き回っていく。
みんな同じだったら、世界は止まってしまう。

さあ、思い出そう。
本当の“個”を知ると、本当の“全”を知る。
“個”をなくした“全”ではなく、“全”の中に“個”があり、“個”の中に“全”をみる。
私たちは宇宙そのもの。
離れ離れになったことなどないし、これからも離れ離れになることはない。
ひとつだから、ひとりじゃない。色とりどりに輝く、透明な一つの生命。
“すべて”が美しくて、愛おしい。

みんなの本当の色は、何色だろう?
その色を生かすには、どうしたらいいだろう?
それをみつけられたら、私たちは、きっともっとやさしくなれる。

ムーミン谷のみんなに聞いてみよう。

 

 

分離できない私と世界

時々、思う。
生命じゃないものは、存在するだろうか? 全部、生命なんじゃないだろうか? と。

“生命”という言葉をどう定義するのかは、人によって、分野によっていろいろ違うけれど、すべての根底にあるもの、あるいはすべての背後にあるものを“生命”とするならば、それはすべてのものに当てはまるのではないだろうか、と思う。

私たちの時代に生きる多くの人たちは、物質と精神とを分けているけれど、物質を創っているのは何だろう? 物質が生まれる前はどうなんだろう? と考えてみると、精神が物質を生み出している、あるいは精神の中に物質がある、という考えが浮かんでくる。すべてが、エネルギー、周波数をもっているのならば、と。
そして、物質に接しているとき、私たちに何が起きるのだろう? と考えてみると、物質が精神を生み出している。あるいは物質の中に精神がある、という考えが浮かんでくる。すべてのエネルギー、周波数がこの世界に影響を与えているのならば、と。
そうであるなら、自分と世界(宇宙)は同じで、決して分かれることはできないし、分かれたこともなかったのではないだろうか、という考えが浮かんでくる。それなのに、私たちは、ここで何をしているのだろう・・・?

平和な心と平和な世界。荒廃した心と荒廃した世界。豊かな心と豊かな世界。二つは一つ。バラバラなものはない。
自分を知ることは、世界を知ること。自分の変化は、世界の変化。世界の変化は、自分の変化。すべては繋がっている。関係のない人はいない。

「わたしたちの見る事物はね。」とピストリウスは小声で言った。「わたしたちが心の中に持っているのと、同じものなんだよ。わたしたちは心の中に持っているのよりほかには、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は、外部の映像を現実だと思って、心の中にある自分自身の世界に、ちっとも発言させないから、それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。そうやって幸福になることはできるさ。しかし一度、あのもうひとつのことを知ってしまうと、大多数の道をゆくという自由はなくなる。ジンクレエル、大多数の道は楽だが、わたしたちの道はつらいのだぞ。―さあ、行こう。」

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界がはじめに生まれたのか。意識がはじめに生まれたのか・・・。
科学が説明する世界が、人間の主観によるものならば、“世界”は、人間が生まれた後にできたのか・・・。
この世界は、宇宙の中にある。宇宙以外ものは、この世界に存在しない。それなら、やっぱり生命でないものは、ここには存在しないのだろう・・・。