力の所在、人の力は無限大

power「団体というのは、」とデミアンは言った。「けっこうなものさ。しかし今ほうぼうに花ざかりの様子を見せているものは、ちっともけっこうじゃないね。団体は個人個人が、たがいに理解し合うことから、新しく生じてくるものだろうし、しばらくのあいだは、世界を変革することもあるだろう。現在そのへんにある団体なるものは、衆愚の組織にすぎない。人間はたがいに相手がこわいものだから、たがいに寄り集まるのさ ―紳士は紳士どうし、労働者は労働者どうし、学者は学者どうしでね。じゃ、なぜかれらは不安があるのだろう。人というものは、自分自身がひとつにまとまっていないときにかぎって、不安があるのだ。かれらが不安なのは、公然と自己を認めたことが一度もないからだよ。自己の中にある未知のものをこわがっているような、そんな人間ばかりの作っている団体とはね。(中略)こうやってびくびくしながら寄り集まっている人たちは、不安でいっぱいだし、悪意でいっぱいなんだ。誰も他人を信用しないんだね。かれらは、もう存在しなくなった理想に執着して、誰でも新しい理想をかかげる者があれば、そいつに石をぶつけるんだ。」

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

時々、思う。
固定化した「団体」も「リーダー」も要らないんじゃないだろうか? と。

それらがなかったら、自分で考えて、自分で行動するようになるんじゃないだろうか。
そうすれば、自分の力を誰かに明け渡すことも、誰かの力を奪う必要もなくなるんじゃないだろうか。自分たちの存在を示すための何か特別なモノを作り出して、それに力を託す必要もなくなるんじゃないだろうか。自分たちだけが最も優れているなどと主張することもなく、まして、自分たち以外のものは排除しなければならないとする必要もなくなるんじゃないだろうか。

ひとりひとりが自分の力を取り戻したら、それが調和した状態なのではないだろうか。
私たちは元々ひとつなのだと認めるこができれば、ひとつにならなくちゃいけないんだという息苦しさや反発を生むようなことは起きないのではないだろうか。

でもやっぱり、ひとりだけではできないこともたくさんあるから、そういう時は、固定化しない流動的な「団体」や「リーダー」があってもいいんじゃないだろうか、と思う。

何かやりたいことや問題が起きたとき、その時々によってそれができる人たちが集まって、それが達成できたら、解決できたら解散する。
リーダーは、集まった人たちの中から、スペシャリストだったり、人をまとめるのが得意な人とかが立ち上がって、その役目が終わればそこから降りる。
そうであれば、そこに個々の優劣はなくなり、それぞれの持っている力を生かせて、奪ったり奪われたりということもなくなるんじゃないだろうか。
団体の意義を必要以上に誇示することも、維持しなくてはいけないんだということに執着することもなくなり、風通しが良くなって、誰でも自由に新しい視点をもつことができ、盲目的になったり、世界に背を向けることもなくなるんじゃないだろうか。

十分に深く自分の本性の根底にまで降りてゆくことができるならば、われわれひとりひとりの内部には高貴であり、価値あり、発展するにふさわしい何かが必ず存在している、と確信することができる。すべての人が追従しなければいけないような人間が存在するなどと、われわれはもはや信じていない。完全な全体はひとりひとりの個体の独自の完全さの上に成り立っているものでなければならない。われわれが作り出そうと望んでいるのは別な誰かにもできるような何かではなく、われわれの存在の独自性に従ってただわれわれだけに可能なような何かなのである。そのような何かがささやかな寄与として宇宙進化に組み込まれていくべきなのである。

(参考:ちくま学芸文庫「自由の哲学 <初版の第一章 あらゆる知識の目標>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

“人の力は無限大”。という言葉がある。
だからこそ、私たちはその“力”の使い方を学ばなければいけないのではないだろうか。
そして、自由も愛もみんなそこにあって、進化の鍵もそこにあるのだと思う。

“集団意識”や“共同創造者”。という言葉がある。
「面倒くさいことは嫌。誰かやって!」それなのに、何か問題が起きると、「最低ね。あなたが悪いのよ。消えてちょうだい!」と言う。私たちは、なんて自分勝手なんだろう・・・。
ひとりひとりが自分の力を思い出し、自分の足で立つことができれば、世界と共にもっと力強く歩み出すことができるんじゃないだろうか。