自由な人、善良な人

盲目的な欲望に支配される人々が相互に示すような感謝は、多くは感謝というよりもむしろ取引あるいは計略である。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

徳を教えるよりも欠点を非難することを心得、また人々を理性によって導く代わりに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは、他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

時々、思う。
本当に自由な人、本当に善い人とは、どういう人のことだろう? と。

自由な人は、自分の欲望のままに生きる人のことじゃない。
欲望のままに生きるその人は、自分のエゴに捕らわれている不自由な人。自分で自分の目を耳を塞いで、うわべだけの自由な人を演じている。
善良な人は、その人から見た悪い人や不幸な人を自分の思う正しい方へと誘導する人のことじゃない。
自分の思い込みだけで動くその人は、自分のエゴに捕らわれている不幸な人。勝手に相手の目を耳を塞いで、うわべだけの善い人を演じている。

「表現の自由」「言論の自由」を自己弁護のために使っている人もまた同じ。
何を言ってもかまわないなんてことが本当にあるだろうか? ただ、自分の発したことの間違いを撤回するのが嫌で、あるいはちゃんと議論が出来ない故に、自由という言葉に逃げているのではないだろうか。
「正義」を振りかざしている人もまた。
唯一の正義というものは本当にあるだろうか? ただ、自分たちとは違うもの、あるいは敵を作ることでしか自分たちの存在を示すことが出来ない故に、正義という言葉を使っているのではないだろうか。

自由な人は、ちゃんと他者を見ている。そして、他者の自由を認めているから、やたらと干渉しない。だから、一見無関心に見えるかもしれないけれど、相手の考えを受け入れられる、とても心が広くて穏やかな人なのだ。
自分の自由だけを優先している人は、他者をちゃんと見ていない。自分の自由のために他者を支配しようとするから、暴力的になる。

善良な人も、ちゃんと他者を見ている。そして、他者の存在を認めているから、やたらと干渉しない。だから、一見冷たく見えるかもしれないけれど、相手の力を信じることができる、とても心が強くて温かい人なのだ。
自分が善い人に見られたいとしている人は、他者をちゃんと見ていない。自分の評価のために他者を自分の作った規則に従わせようとするから、強引になる。

自由な人、善良な人は、精神的に自立し、成熟している人。豊かに軽やかに微笑み、水のように、太陽のように、自分を生き、周りを生かす。内から輝き、世界を照らす。

自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合する。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそうと努める。したがって自由の人々のみが相互に最も多く感謝し合う。

(参考:岩波文庫「エチカー倫理学」スピノザ著、畠中尚志訳)

自由な人、善良な人とは逆に、自分で考えることを止める人、すべてを否定して悪ぶる人もいる。
その人は、他者への自分への可能性を信じることを放棄した人。世界に対して目を耳を塞いで、それでも愛してと叫んでいる。

私たちは、お互いに学び合っている。丁寧に生きていこう。