私と世界の観察日記」カテゴリーアーカイブ

分離できない私と世界

時々、思う。
生命じゃないものは、存在するだろうか? 全部、生命なんじゃないだろうか? と。

“生命”という言葉をどう定義するのかは、人によって、分野によっていろいろ違うけれど、すべての根底にあるもの、あるいはすべての背後にあるものを“生命”とするならば、それはすべてのものに当てはまるのではないだろうか、と思う。

私たちの時代に生きる多くの人たちは、物質と精神とを分けているけれど、物質を創っているのは何だろう? 物質が生まれる前はどうなんだろう? と考えてみると、精神が物質を生み出している、あるいは精神の中に物質がある、という考えが浮かんでくる。すべてが、エネルギー、周波数をもっているのならば、と。
そして、物質に接しているとき、私たちに何が起きるのだろう? と考えてみると、物質が精神を生み出している。あるいは物質の中に精神がある、という考えが浮かんでくる。すべてのエネルギー、周波数がこの世界に影響を与えているのならば、と。
そうであるなら、自分と世界(宇宙)は同じで、決して分かれることはできないし、分かれたこともなかったのではないだろうか、という考えが浮かんでくる。それなのに、私たちは、ここで何をしているのだろう・・・?

平和な心と平和な世界。荒廃した心と荒廃した世界。豊かな心と豊かな世界。二つは一つ。バラバラなものはない。
自分を知ることは、世界を知ること。自分の変化は、世界の変化。世界の変化は、自分の変化。すべては繋がっている。関係のない人はいない。

「わたしたちの見る事物はね。」とピストリウスは小声で言った。「わたしたちが心の中に持っているのと、同じものなんだよ。わたしたちは心の中に持っているのよりほかには、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は、外部の映像を現実だと思って、心の中にある自分自身の世界に、ちっとも発言させないから、それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。そうやって幸福になることはできるさ。しかし一度、あのもうひとつのことを知ってしまうと、大多数の道をゆくという自由はなくなる。ジンクレエル、大多数の道は楽だが、わたしたちの道はつらいのだぞ。―さあ、行こう。」

(参考:岩波文庫「デミアン」ヘルマン・ヘッセ作、実吉捷朗訳)

世界がはじめに生まれたのか。意識がはじめに生まれたのか・・・。
科学が説明する世界が、人間の主観によるものならば、“世界”は、人間が生まれた後にできたのか・・・。
この世界は、宇宙の中にある。宇宙以外ものは、この世界に存在しない。それなら、やっぱり生命でないものは、ここには存在しないのだろう・・・。

 

 

内にある光と闇と真の光

時々、思う。
みんなにとっての、世界にとっての、“善いこと”とは、何だろう? と。

「“善いこと”をしているつもりなのに・・・」という経験をしたことはないだろうか?
「わたしは、あなたのためを思ってこうしたのよ。それなのに・・・」。それは、本当に相手が望んでいたことだったのだろうか? 自分が相手にそうなってほしかっただけなのでは? それとも、善い人って言われたかったから?

難攻不落の言葉、“正義”とは? “正義”を掲げて人を殺すのは、“善いこと”だろうか?
その人を満たすために必要なのは、自分とは違う考えを持つ者。私が正しいのだから、それを否定する者はみな悪なのだと、それを排除することが「みんなの幸せ」なんだと正義を掲げて闘う。そして、悪だとされた側も、そう言うお前たちこそ悪なのだと、自分たちの正義を掲げて、「みんなの幸せ」のために闘う。
どちらも同じに見えないだろうか。

自分の正義を貫くための敵を探しているかぎり、敵はいなくならない。自分が善い人でいるために不幸な人を探し、不幸な人がいなくならないように。
一体、誰のためだろう? 自分を満たすためだけなのでは? 敵がいる方が都合がいいもの。世界が混乱していた方が、不幸な人がいた方が都合がいいもの・・・と。

「ハウルの動く城」で、自然豊かな山々と草花が穏やかな風に揺れる明るい野原に、戦場へ向かう空飛ぶ軍艦のような機体があらわれ、それを見ながらソフィーとハウルが話します。

ソフィー: 「敵? 味方?」
ハウル: 「どちらも同じさ。」

(参考:映画「ハウルの動く城」宮崎駿監督)

「みんなの幸せ」のために戦争をする。「みんなの幸せ」のために自由を奪う。「みんなの幸せ」のためにこの星を破壊する。「みんなの幸せ」のために・・・。
それは、本当に私たちの幸せに繋がっているのだろうか。それは、自分の座っている方の枝を切っていることにはなっていないだろうか。

人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが 相容れないのは 一体何故なんだ
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 正しさは
Nobody Is Right, Nobody Is Right, Nobody Is Right, 道具じゃない

(参考:「Nobody Is Right」作詞・作曲:中島みゆき)

他人の悪は、よく気づく。では、自分の中にある悪には気づいているだろうか? そのことと、ちゃんと向き合ったことがあるだろうか。
世界を変えようと思うならば、まず自分のことから取りかからなければいけないのではないだろうか。

「いや、星の王子様なんて言うから、てっきり。まさかあんなしょぼくれた中年が・・・」
しかもコオロギだなんて、と言ってプッと吹き出す亘を、夏夫はキッとにらみつけた。
「おまえがなぜ女にモテないか、もうひとつわかった」
そう言うと、一瞬にして真剣な顔になった亘に「サービスだぞ」と言ってから続ける。
「それは、おまえが救いがたく心の卑しい人間だからだ。自分はチッポケな人間だと理解しながら、一方で自分より小さな人間を貪欲に探している。ワイドショー好きの主婦のようだ」
ミアも「ヨウダ」と続けた。同感だと言いたいらしい。夏夫はさらに言う。
「しかもなお悪いことに、人間を表面的な見てくれで判断しようとする。おれには、愛の花火がどこで打ち上げられたか、全力で走り回った彼が、星の王子様に見えたけどな」
ミアが「ケドナ」と言う。亘は情けなくて涙が出てきた。

(参考:ワニブックス「世紀末の詩」野島伸司著)

物語の世界では、闇や影と対決する場面が多くある。そして、物語に悪役として登場してくるものたちは、とても魅力的でもある。彼らは、私たちに何を気づかせようとしているのだろう? “悪”とは、単純に悪いことで排除しなければいけないものなのだろうか?

ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストーフェレスは、自分の存在をこう言いました。

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部です。

(参考:岩波文庫「ファウスト <第一部>」ゲーテ作、相良守峯訳)

J・R・Rトールキンの「指輪物語」に登場するゴクリもまたそうだった。
ル=グウィンの「ゲド戦記」で、ゲドが戦った影もまた。

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅の苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはや生を差し出すことはないだろう。

(参考:岩波書店「ゲド戦記 影との戦い」ル=グウィン著、清水真砂子訳)

悪や闇や影は、その役目である“悪いこと”をするのだけれど、それが結局主人公を目覚めさせることになったり、世界を好転させるきっかけを作ることになったりする。そして、物語の終わりに、その役目を果たしたように世界の中に消えていく。いつでもまた戻ってくるよ、と余韻を残しながら。
悪や闇や影は、私たちを真の光へと導く案内人。
悪や闇や影は、自分の外側にいる敵ではなく、自分の内側にあるものであると、彼らは教えてくれます。光と闇は、別々のものではなくひとつのものであり、それを超える世界があるのだと教えてくれます。彼らの悪の面だけに魅了されたりのみ込まれたりしなければ・・・。

どんなに嫌な人もどんなに大変な事も、次のステージへと自分を引き上げてくれる人や事なのかもしれない。すぐに否定をしないでグッと見つめてみたら、そこに自分自身を見つけるかもしれない。そのことから、自分のまだ知らない可能性を見つけるかもしれない。
そうして見てみると、この世界に悪はないのかもしれないと思うようになる。そのことに気づかないから、悪があらわれるのではないだろうか。

シェイクスピア「ロミオとジュリエット」には、修道士ロレンスが、大地と草花のもつ生と死、薬と毒について語りながら、人間のもつ善と悪について語る場面があります。

いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、
いかなる悪も、これを活用すれば善となる。
この可憐な花の幼い蕾の中には、
毒の力と医療の力がともどもに存在している。
嗅ぐだけならば、五官の一つ一つに生気を与えるが、
もしこれを口にするときには、心臓とともに五官すべてをとめてしまう。
このように二つの互いに抗争する王者が、つまり美徳と悪への意志が、
人間の心の中にも、草木の本性の中にも陣取っている。
もし悪への意志が圧倒的な力を振るうときには、
直ちに毒虫が人も草木も枯らして死に至らしめるのだ。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

自分のことだけを考えている人は、人を無意識のうちに傷つけて、結局そのことで自分をも傷つけている。自分のしていること、考えていることに注意深くあれば、私たちは、混乱を抜けて新たな世界へと歩んでいけるのではないだろうか。

意識に受け入れられない影は外側に、他人に投影されます。わたしにはなにも悪いところはない ―あの人たちが悪いのだ。わたしが怪物だなんて、他の人のほうが怪物なんだわ。外国人はみな腹ぐろい、共産主義者はどいつもこいつも悪人だ。資本主義者はひとり残らず悪の手先だ。あの猫が悪いんだよ、ママ、だから僕はけっとばしたんだ。
人が現実の世界に生きようと思うなら、こうした投影を引きもどさなければなりません。この憎むべきもの、邪悪なものが自分自身のなかにあることを認めなければならないのです。これは、生やさしいことではありません。誰か他の人のせいにすることができないというのは、とてもつらいことです。でも、それだけの価値はあるかもしれません。ユングはこう言っています。「自分自身の影をうまく扱うことを学びさえすれば、この世界のためになにか真に役だつことをしたことになる。その人は今日われわれの抱えている膨大な未解決の社会問題を、ごく微小な部分ではあっても自分の肩に背負うという責をはたしたのである」
それだけでなく、この人は真の共同体、自己認識、創造性へと近づいたのです。影は無意識の戸口に立っているからです。

(参考:サンリオSF文庫「夜の言葉 <子どもと影と>」アーシュラ・K・ル=グイン著、スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)

自分の内なる闇を知るものは、真の光を知る。
光と闇を超えた先に、真の光がある。
そこに、愛がある。

 

 

終わりと始まりの鼓動、地球が活動していなければ豊かな自然は生まれない

flower07メフィストーフェレス:
それでも無論たいしたことはできんですよ。
無に対立している或物ですね、
つまりこの気のきかない世界というやつですね、
こいつは、私がこれまでやってみたところでは、
なんとも手に負えないやつなんです。
津波、暴風、地震、火事、いろいろやってみますが、
結局、海も陸も元のままに平然たるものです。
それにあの忌々しいやつ、動物や人間のやつらときたら、
どうにも手のつけようがありませんや。
これまでどれほど葬ってやったでしょう、
それでも新鮮潑剌たる血が依然として循環するのです。
こういう工合だからわれわれも気が狂いそうになるんですよ。
空気から、水から、地面から、
千万の芽が萌え出してくる、
乾いた所からも湿った所からも暖かい所からも寒い所からもです。

(参考:岩波文庫「ファウスト 第一部」ゲーテ作、相良守峯訳)

時々、思う。
“被害”とは、何なのだろう? “異常気象”とか“自然災害”とは、何なのだろう? と。

「未完の創造に栄えあれ!」
アーシュラ・K・ル=グウィンのどの物語に出てくる台詞だったか忘れてしまいましたが、私を身体の中心からグッと立ち上がらせてくれる、とても好きな言葉です。

地球がこうして活動していなければ、私たちはどんな世界にいることになるのだろう?
山があって、川があって、森があって、海があって。晴れの日、雨の日、嵐の日、雪の日があって。地震が起きて、噴火が起きて。虹が架かって、風が吹いて・・・。こんなに豊かな自然は出来ていないかもしれない。そして、こんなに多様な生物も生まれてこなかったかもしれない。多くの詩も多くの踊りも多くの芸術も生まれることはなかったかもしれない。
山はどうやって出来るのか。それを知るだけでも、多くのことを知ることができる。

“環境保護”や“動物保護”は、どこまで人間が関わる必要があるのだろう?
すべて今私たちが生きているこの状態のままにしておくことは、自然なことだろうか? それもまた、人間の勝手な考えなのではないだろうか、と思う。これまでだって、地球の環境はずっと一定だったということはなかったはずなのに・・・。
絶滅した生物を復活させようという考えは、どこからくるのだろう? それで満たされるのは、狭い想像力の中の好奇心とほんの一時だけの達成感だけなのではないだろうか。多くの生物の生と死によって、私たちがここにいることを忘れてはいけないのでは・・・。
もちろん、過度な搾取や破壊、循環しないものや必要以上の大量生産は、考え直さなければいけない。それも、“自然であること”の範囲を超えていることだから。
でも、“異常”とは“被害”とは、誰の目線で言っていることなのだろう? もっと高くて深いところから見たら、この変化はどう見えるだろう?

大きな自然の力を受けて、これまでの生活が急にできなくなることは大変だれど、そこに“奪われる”という感覚はないし、“終わり”を見ることもできない。崩壊と同時に“始まり”の鼓動を聞く。
その時マイナスだと思った出来事も、そこから一歩踏み出す時にはプラスになっている、ということを経験したことがある人は多いのではないだろうか。自分が暗闇にいると思っていても、光は、暗闇の中にあるのです。そこに目を向けてみた時、暗闇はやさしく笑って消えていくでしょう。

世界が終わると言っている人たちは、世界のどこを見てそう言っているのだろう?
新しい世界が始まると言っている人たちは、世界のどこを見てそう言っているのだろう?
終わりの先には、何があるのだろう? 始まりの前には、何があるのだろう?
それを、誰が知るのだろう?
今日もこの地球の活動的なエネルギーに、私はドキドキしています。
生きている地球。生きている宇宙。ドクンドクンドクンドクン・・・。私もここで生きている。
“温暖化”は、この地球のエネルギーが上がっているからなのでは・・・。
世界が終わる? “世界”は、こうしてあるのに・・・。

日々いろんなことが起きているけれど、表面に見えることだけではなく、エネルギーを見ることが出来れば、不安な感情に押しつぶされることも、不安をあおるような情報に振り回されることもなくなるのではないだろうか。
ここにいるのは、人間だけではないのだから。

“自然な生き方”とは、どんな生き方のことなのだろう?

地上生活の根底に宇宙の萌芽が感じとれたとき、一切の地上生活の意味が透明になる。どんな植物形態も、どんな石も、否、地球全体が新たに甦るべき大宇宙の胚種なのだ。このことを地球は、その生命と形姿のよって明示している。人間の魂がこのことに気づくなら、地上のどんな存在も新しい光の下に現われるであろう。

(参考:春秋社「シュタイナー 悪について <ミカエルの秘儀>」ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳)

 

 

世界の見方、本当の癒しは“ここ”にある

sky06「ハラ、たしかに世界は広く、謎に満ちている。だが、わたしたちの心のほうがそれよりも広く、もっと多くの謎に満ちているんだよ。ときにはそのことも考えてみるがいい。」

(参考:岩波書店「アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ」ル=グウィン作、清水真砂子訳)

時々、思う。
どうして、私たちは同じ世界の中にいるのに、それぞれ違う世界を見ているのだろう? と。

日食や月食、彗星など、宇宙のイベントが起きるとき、科学系のサイトでもスピリチュアル系のサイトでも大きく取り上げ、双方とも同じ時に同じ宙を見上げている。でも、それぞれ違う見方をして、違う解釈をしている。
宇宙のイベントだけでなく、どんな出来事の場面を一つ取ってみても、それぞれの見方や立ち位置で受け止め方が違っている。
「どうしてそうなる?」と思うことでも、それは正しいことで当たり前のことで普通のことだと言う人もいる。「それぐらいのことで?」と思うことでも、それは生きるか死ぬかの一大事だったりする人もいる。同じ事柄でも、それを幸せだと思う人もいれば、不幸だと思う人もいる。そして、それは時代によっても変わっていく。
それぞれの世界の見方で、その人にとっての世界の真実が変わり、その人の現実、体験する世界も変わっていく。

物事をよーくよーく見て、ずっとずっと深く探っていくと、気づくことがある。
それはどんどん細かく探っていくと、どんどん細部が見えてくるのと同時に、どんどん全体が見えてくる感じ。そこで見つけるものは、最も簡単で単純なものではないだろうか。「こうあるべきだ」と決めつける前に、その物事をそのまま丸ごと見つめてみると、そこで見つけるものも、結局、最も簡単で単純なものではないだろうか。

「科学かスピリチュアルか」とか、「西洋か東洋か」とか、「男か女か」とか、他にも何か一見対極にありそうにみえるカテゴリーでも、どっちかだけを正しいとするのではなく、どっちもという選択もあるのではないだろうか。そして、その両方を超えた視点というものもあるんじゃないだろうか。「内側か外側か」ということもまた。
真の旅は、帰ること。行ったっきりではいけない。
内側の世界に留まったままではいけないし、外側の世界だけに夢中になっていてもいけない。二つの世界は一つ。そして、“ここ”に戻ってこなくてはいけないのだと思う。

人間が、自分のまわりの世界のなかで自分をふたたび認識するときにだけ、逆にまた人間が、世界の像を自分のなかでふたたび発見するときにだけ、人間は、その世界を故郷のように感じることができる。まさにこのことこそ、すべての文化に本質なのです。

(参考:岩波書店「「はてしない物語」事典―ミヒャエル・エンデのファンタージェン <ファンタージェン―国境のない国で道に迷わないために>」ローマン&パトリック・ホッケ編者、丘沢静也、荻原耕平訳)

瞑想をして気持ちよくなっているだけではいけないし、詳しい事はわからないけれど、ビジネス化したスピリチュアル系のモノや人だけに頼っていてはいけないと思っています。スピリチュアルといいながら、なぜ、モノに力をあたえるのだろう。なぜ、人間を弱いもの、傷ついたものとするのだろう。なぜ、自分たちがしていることをしていない人や出来ていない人を非難するのだろう。なぜ、そんなに時間や場所に囚われているのだろう、と思うからです。
それはまるで扉はずっと開いているのに、それを見ないように戸口の前で遊んでいるように見える。“それ”はすでに“ここ”にあるのだとわかってしまえば、彼らの遊びは終わってしまう。それに気づいたら、彼らは何を始めるだろう・・・。

そして、薬に頼り過ぎることもよくないと思っています。
何か問題が起きたら、薬を飲めばすべて解決できるという考え方は、とにかく手っ取り早くやってしまおうという安易な考え方がみえて、乱暴にもみえる。
当たり前のことだけれど、口にしたものが私たちの身体をつくっている。何を食べているかというと、地球で育ったもの。地球の中で共に生きるたくさんの生命によって私たちの身体はできている。そして、地球は宇宙の中にあって、完璧に循環しているはず。
添加物や化学薬品などは、私たちの身体に本当に必要なものなのだろうか・・・。

私たちの考えることや感情も身体に影響を与えている。
うつ状態のとき、身体はどうなるだろう? 重くて動かなくなる。座っているのさえ辛い。横になっても眠れない。身体はどんどん停止していくよう・・・。
ストレスが溜まるとジャンクフードが食べたくなるのはどうしてだろう? タバコが吸いたくなるのは、お酒をたくさん飲みたくなるのはどうしてだろう? それを続けていると、身体はどうなっていくだろう?
肌が荒れたり、内臓が悪くなったり、集中力がなくなったり・・・。その時、薬だけでなんとかしようとするとどうなるだろう? 私たちの身体は、常に循環して完璧なはずなのに。自ら悪くなる方へとどんどん向かっていないだろうか・・・。

体質や性格も、みんなそれぞれ違う。だから、コレを服用すれば、コレを持って入れば、コレをやれば絶対大丈夫。ということは、簡単に決められないことなのではないだろうか。
問題を手っ取り早くモノで解決しようとする前に、自分の意識に注意を向けてみてはどうだろう。
イライラ、うじうじ、どうしよう、お前のせいだ、僕なんてどうせ・・・。でも、その時、それを見ている静かでおだやかな自分がいるはず。それに気づけば、世界はまた新たな面を見せてくれる。

「わかったわ。」 とルーシィは、考えにふけりながら、さいごにいいました。「いまやっとわかったわ。この庭は、あのうまやのようね。そとよりなかのほうが、ずっと大きいのね。」
「もちろんですよ。イブのむすめさん。」 とフォーンがいいました。「あなたが、さらに高く、さらに奥へはいっていくにつれて、なにもかもずっと大きくなるのです。うちがわは、そとがわよりも大きいものですよ。」
(中略)
「わかったわ。」 とルーシィ。「ここもやっぱりナルニアね。下にあるナルニアよりも、もっと真実で、もっと美しいナルニアね。ちょうど下のナルニアが、うまやの戸のそとにあったまことのナルニアよりも、もっともっと真実で美しかったように! 世界のなかにある世界、ナルニアのうちがわのナルニアだわ・・・・・」
「そうです。」 とタスナムさん。「タマネギみたいでしょ。でもこれは、あなたが奥へはいればはいるほど、その皮が、まえにむいた皮よりずっと大きくなるところが、ちがいますけどね。」

(参考:岩波少年文庫「さいごの戦い」(ナルニア国物語7)C,S,ルイス作、瀬田貞二訳)

“それ”は、何かの大きなイベントによって起きるのではなく、誰かの派手なパフォーマンスによって起きるのではなく、それぞれの人の中で、ただ“それ”が起きるだけ。待っていることも、つかみ取りに行く必要もない。
“それ”は、一時の限定的な癒しとは違う。しっかり目を開けて内と外の世界を体験すれば、“それ”が見出され、以降“それ”が決して消えることがないことを知る。
そこに本当の癒しがある。
それを知ったとき、世界は、真に生き生きしたものとなり、その中を力強く生きていける。

誰かを通して見た世界ではなく、自分の目で見てみたら、この世界はどう見えるだろう?
そして、その目で自分自身を見てみたら、そこに何を見るだろう?

わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。

(参考:光文社古典新訳文庫「実践理性批判2」カント著、中山元訳)

 

 

俺の町、あなたの名前

sakura02クロ: 「木村ってヤツがいてね、こいつが俺の町で好き勝手やってるんだ。」
じっちゃ: 「“俺の町”ってのはやめろ、クロ。悪い癖だ。ここは、誰の町でもねぇ。」

(参考:映画「鉄コン筋クリート」松本大洋原作、マイケル・アリアス監督)

時々、思う。
どうして、私たちは、あれこれ区別したがるのだろう? どうして、これは私のモノだと主張したがるんだろう? と。

そこから生まれるものは、何だろう? それを生み出すものは、何だろう?
分けることなどできないのに。分けられたことなどないのに。どうして、同じであることを受け入れることに、そんなに怯えるのだろう?
分けているのは、私たち。「私のモノ」がある方が、「私であること」をつかみやすい。それがなかったら、「私」は宙ぶらりん・・・。

誰のものでもない町。誰のものでもない国。誰のものでもない地球。誰のものでもない宇宙。誰のものでもない私。みんな同じ空の下、空の中。「私のモノ」など何もなかった。
あらゆるものの中に存在するものが、これまでも今もこれからも、姿を変えて存在しているだけなのだから。
何も持たなくても、「私」はここにいる。

ジューリエット: おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?
お父様とは無関係、自分の名は自分の名ではない、とおっしゃってください。
それがいやなら、お前だけを愛していると、誓ってください。
そしたら、私もキャピュレットの名を捨ててしまいましょう。
ロミオ: このまま聞いていようか、それともすぐに話しかけようか?
ジューリエット: 私の仇はただあなたの名前だけ、
モンテギュー以外の名前をもっておられてもあなたはあなた。
モンテギューというのは何なのか。 手でもなければ足でもない。
腕でも顔でも、いいえ人間の五体のどの部分でもない。
ロミオ、ほかの名前の人になってください!
名前っていったい何なのか? みんなが薔薇と呼んでいるあの花も、
ほかの名で呼ばれてもその甘い薫りには変わりはないはず。
同じようにロミオも、たとえロミオと呼ばれなくとも、
あのなつかしいお人柄に変わりはなかろう、もともとロミオという名前とは、
何の関係もないお人柄なのだから。 おお、ロミオ!
どうかそのお名前を捨ててくださいまし! そしてそのかわりに、
あなたにとってそう大切でもない名前のかわりに、私を、私のすべてを、おとりくださいまし。
ロミオ: おっしゃるとおりにいたしましょう!
私をただ、恋しい人だと呼んでください。 すぐにでも洗礼を受けて名前を変え、
ロミオという名前とは別な人間になりましょう。
ジューリエット: あなたはだれなのです、こうやって夜の暗闇にまぎれ込み、
私の内緒の独言を聞いたあなたは?
ロミオ:私がだれか、どういう名前で答えていいのか、
私にもわからないのです。 あなたは私の名前を仇だとおっしゃる。
だとすれば、それは私にとっても憎い憎い名前。
何かに書いてあれば、消してしまいたいほど憎い名前です。
ジューリエット: あなたのお口から響いてくる言葉を
私はまだそれほど耳にはしておりませんが、お声はちゃんと覚えております。
あなたはロミオ、モンテギュー家のお方。
ロミオ: いや、美しいあなたに答えたい、どちらもおいやなら、どちらでもない、と。

(参考:岩波文庫「ロミオとジューリエット」シェイクスピア作、平井正穂訳)

名前、家系、国、法律、宗教、旗、・・・。どうして、私たちはあれこれとカタチを作りかがるのだろう? もし、それらがなかったら、私たちは仲良くできるだろうか。
今ある国境は、はじめから今の状態ではなかったし、今も変えようとしている人たちがいる。同じ地球の中で、「これは私のモノだ!」と拳を上げている。
違って見えるものではなく、私たちに共通しているものに目を向けてみたら、あらゆる区別をなくして、世界をただそのまままるっと見てみたら、そこに何を見るだろう?
そのとき、「私のモノ」は、何になるだろう・・・。